過去のフォーラムのご案内
名古屋哲学フォーラム2022秋のお知らせ
ご無沙汰しております。コロナ禍突入後初の名古屋哲学フォーラムは、中部哲学会との共催での開催となります。テーマは、「ことばと尊厳」。そして今回は、広く「ことば」について考えるテーマですので、手話通訳もつきます。ぜひ多くの方にご参加いただきたいと思っております。どなたでもご参加いただけます。
(追記:2022年9月23日)台風15号が24日に東海地方に接近する見込みです。そこで現地に来ることが困難な方のために、発表をZoomで配信することにいたしました。急ごしらえなのでいろいろと不手際があると思いますがご容赦ください。Zoomミーティング情報は中部哲学会の大会プログラム(https://docs.google.com/document/d/1ba15WoB99j1_57B0EVMTqaCVgED3TlF7E8j88qHDgS8/edit?usp=sharing)に記載してありますのでご覧ください。なお今のところ(23日12時)は現地でも開催する予定ですが、当日、 朝7時の時点で、開催地である名古屋市北区を含む地域に、大雨警報、洪水警報、暴風警報のどれかが出ている場合は、完全にオンラインで実施します。現地開催中止の場合は中部哲学会のウェブページ(https://sites.google.com/site/chubus4p/)でもお知らせしますのでチェックをしておいてください。
ことばと尊厳は、従来それほど結び付けて検討されてきたわけではなかったように見えるが、実際のところこの二つの概念によって議論の的となることは多くある。ヘイト・スピーチやことばによる脅迫のように人を傷つけたり、ことばによる嘘やミスリードや「たわごとbullshit」で人の自律の行使を妨げたり、差別的な言葉遣いやステレオタイプの使用や「犬笛dog whistle」「隠語code word」によって人を貶めたりすることは、相手の人としての尊厳を冒すものであると言われることがある。同時に、人が率直に声を上げることを妨げることや、自分についての語りをコントロールできないことも、その人の尊厳を守れないことになると言われたりする。いわゆる「言論の自由」の問題とその関連領域は、人としての尊厳を根本概念とみなすカントのような義務論的傾向を持つ者にとっては、どうしたらその尊厳を守ることができるのか、ひいては何が尊厳の本質なのかという大きな問題を実感させる場なのである。また、何らかの社会的要因・理由で周囲との共通のことばでの交流に参加できない者――もしかしたら、外国人、幼き者たち、未来世代、グライス流の協調原理によって振る舞えない者、言語を使う共同行為をできない者、その場の会話の規則に従えない者、手話を使う人――がいるとすれば、その存在のもつ尊厳を、どうしたら尊重したことになるのか、といったことも難しい問題となる。
こうした道徳哲学的な問題の解決には、その現象とその背後にある言語的・社会的構造の把握が不可欠である。たとえば、なぜ、そしていかにして、一定の言語使用が尊厳の毀損や貶価demeaningをすることになるのかという点は明らかではない。また、何がことばによるコミュニケーションへの対等な参加を妨げるのか、あるいは何によって一部の人がことばによる対話において不利な立場に置かれ恒常的な無理解と軽視にさらされることになるのか、そしてなぜそれがしばしば当事者にも言語化して提示することが難しい問題なのか、といった点は、まさにことばというツールとその使用の背景にある構造についての問いである。こうした分析の局面においても、少なからずことばにこだわってきた哲学は、問題の解決に貢献できるかどうかを試されている。そしてこの挑戦に答えようとする過程で、哲学的な対話や議論の営み自体が適正な言語的・社会的環境の下で行われてきたのかを反省することにもなるだろう。
なお、「尊厳」や「人としての尊厳」ということば自体も、実は批判の余地のないものではない。たとえば現在の英米圏の研究者には、それが単に個人の自律あるいはそれが持つ価値のことを意味するのでなければ、真剣な哲学論争においては回避すべきマジックワードだとみなす者も多い。また人格間の平等主義的な尊厳の用法は、他方で尊厳を持たない存在を質的に価値の低い存在としてみなす含意を伴うようにみえる。このある種人間中心主義的含意を持つ用法が、擁護できるものなのかという点は、規範倫理学において懸念の的となってきた。さらに「尊厳」には、威厳を持ったあり様・立ち居振る舞いという、いわゆる「男性的態度」のイメージを伴う用法があり、ジェンダー・バイアスについての懸念の余地もある。そして、そもそも尊厳ということば自体が一見して西欧由来であることから、その使用にはヨーロッパ中心主義についての危惧も生じうる。こうした「尊厳」についての論点の帰趨は、先に触れた「言論の自由」の諸問題や、周囲とのことばによる対話から排除されたり不利になったりする者についての問題についても、影響を与えることが予想される。
今回の名古屋哲学フォーラムでは、こうした、ことばと尊厳をめぐる様々な論点のいくつかについて、多様な視点から対話を進めようとするものである。興味関心のある方には、ぜひ参加して、自己と他者を尊重しつつ議論を深めるのに貢献して頂きたい。
*今回の名古屋哲学フォーラムは、中部哲学会との共催です。また、JSTムーンショット型研究開発事業JP-MJMS2011および科研費21K00030の研究活動の一環として実施されています。
名古屋哲学フォーラム2019冬のお知らせ
今年度の名古屋哲学フォーラムでは、社会心理学と哲学のコラボレーションによって「概念工学」という新しい学問領域を立ち上げようという野心的な著作の合評会をします。海外でもConceptual Engineeringは話題になっていますが、本書の「概念工学」はそれと比べて概念づくりと工学とのアナロジーと学際性を強調したものとなっています。本書の編者によると、概念は人々の幸福に深くかかわる人工物であり、概念工学とは、有用な概念を創造・改定することを目指す学際的な学問領域だそうです。心理学―とくに社会心理学―と哲学は共に概念の本性とその理解・使用に関心を寄せてきたという経緯があり、本書『〈概念工学〉宣言!』はその協働により概念の基盤、必要性、課題、可能性を提示することと試みています。概念工学に関する問いを抽象的なレベルで議論するだけでなく、「心」「自由意志」「自己」という具体例を社会心理学と哲学の一線の研究者が検討しているのが特徴です。この検討においては、従来の社会心理学と哲学の探究目的、探究方法、基本的想定にある共通性と差異を明るみにだし、それに対する反省の下に新たなアプローチを進めようという、科学哲学的・メタ哲学的な営みがなされています。上記のプロジェクト―あるいは、さらに広く(社会)心理学と哲学―の意義と展望について興味を持たれた方は、ぜひ合評会にご参加ください。
今回の名古屋哲学フォーラムは、科学研究費補助金(基盤(B))哲学的知識の本性と哲学方法論に関するメタ哲学研究(代表者 鈴木貴之:研究課題番号 16H03347)の研究活動の一環として実施されています。
名古屋哲学フォーラム2018冬のお知らせ
みなさん、いかがお過ごしでしょうか?今年も秋なのに名古屋哲学フォーラムやらねぇなぁと思っている方々もおられることでしょう。ご安心ください。少し時期はずれますが、今年もあります、名古屋哲学フォーラム。今年は 冬、12月。テーマは、脱「おひとりさま哲学」。ご存知の方も多いかと思いますが、本年7月に信頼研究の学際化を目指して刊行された『信頼を考える―リヴァイアサンから人工知能まで』(小山虎編著、勁草書房)は、様々な領域の専門家たちが寄ってたかって「信頼」という共通テーマに取り組んだ学際的共同研究の成果であり、伝統的な(?)「おひとりさま哲学」へのアンチテーゼを示しているようにも思われます。また、本書刊行に並行して、綿密な企画運営のもと書店とウェブを結んだブックフェアも展開され、学術書を読者に届けるということについても真摯に向き合うスタイルが印象的でした。この試みが示す学術書刊行とブックフェアの連続性もまた、脱「おひとりさま哲学」宣言だと言ってもよいかもしれません。果たして、「おひとりさま哲学」とは別の道を歩み始めた哲学者たちは、どこへ向かうのか?今年の名古屋哲学フォーラムでは、『信頼を考える』の編者である小山虎さん、著者の朱喜哲さん、本書ブックフェアのプロデューサーである酒井泰斗さんを囲みながら、チームで哲学をすることについて哲学的に考えてみたいと思います。どなたさまも(おひとりさまも)ぜひお越しください。
以下、各提題者の発表要旨です。
「『信頼を考える』はどのようにして生まれたのか:意図していたことと意図していなかったこと」
小山虎(山口大学時間学研究所)
『信頼を考える』は様々な点で哲学書にしてはあまり見かけないスタイルの書籍だと思われる。しかし、本書の制作はまったく独自の試みということはなく、むしろ哲学で既に行なわれている活動をごく普通に取り組んだ結果にすぎない。独自であるように見える特徴のほとんどは(ブックフェアも含め)単に偶然の産物であり、その意味で本書はなんら特別なものではない。しかしながら、本書の編者から見ても独自であるよう思われることもある。それは、そうした偶然が起きることを最初から予想し、それを積極的に取り込んだ点である。本提題では『信頼を考える』の制作経緯を紹介し、参考にした既存の取り組みと、制作過程で生じた偶然とその結果について振り返ることで、「哲学者のすべきこと」について改めて考える材料を提供したい。
酒井泰斗(会社員。ルーマン・フォーラム管理人)
報告者は、一人の社会学愛好者・享受者として、ここ15数年ほど いくつかの学術出版に携わるとともに、数多くの研究会の運営や学術イベントの企画立案・運営に関わってきた。集合的な社会的活動としての学術研究にとって出版はそれを支える基本的なインフラであり、多くの研究実践はそれを中心とするかたちで組織されるが、特に人文社会系分野においては 学術雑誌に加えて書籍出版が重要な位置にある。本報告では、著者がこの間に行ってきた活動を振り返りつつ、それらを行うさいに、①研究活動と出版の関係をどのようにとらえた上で、②どのような点に留意しつつ、③何を目指してきたかを──特に『信頼を考える』と「信頼ブックフェア」を中心に──振り返ってみたい。(なお報告者は2014年に「科学・技術と社会の会」189回例会にて同タイトルの報告を行っており、今回は事例を変えた二回目の報告となる。)
「哲学の手法でビジネスをする、ビジネスの手法で哲学をする――『信頼を考える』フェアにおけるPDCA運用事例より」
朱喜哲(会社員。大阪大学大学院文学研究科博士後期課程在籍)
『信頼を考える』は「信頼」をキーワードに多岐にわたる分野の専門家が協業した成果物である。そして、このプロジェクトで結集された「専門性」は必ずしも狭義のそれ――つまり学術的な研究能力――のみに限定される訳ではない。たとえば提題者は「ヘイトスピーチ」章を共著者のひとりとして執筆したが、書籍刊行後のブックフェアのような書籍販促の段階においては、職業上の専門性をもつデータ分析やPDCA運用といった役割をも担った。これはあくまで一事例ではあるが、「哲学だけをやれる哲学者」がますます絶滅危惧種になるだろう環境において、異なる領域で糧を得ながら哲学をすること、さらにはすでに存在する多様な専門性を哲学者コミュニティが生かしていく可能性や展望について、議論を提起したい。
今回の名古屋哲学フォーラムは、 平成28年度科学研究費助成事業(研究課題番号16H03341、16K02148)による研究活動の一環として実施されています。
名古屋哲学フォーラム2017秋のお知らせ
うー。あー。暑。蒸。むー。暑。蒸。蒸。暑。うー。脳。とける。ビール。れいぞうこ。ビール。うー。すーぱーどらい。敵。あー。ヱビス。嬉。ヱビス。幸。ヱビス。おいし。ヱビス。おいし。ヱビス。グラス。のむ。おいし。ごく。ごく。ごく。
あー。ヱビス。空。ヱビス。ない。もっかい。冷蔵庫。ヱビス。嬉。ヱビス。おいし。ん? ヱビスおいしい。ヱビス美味。嬉しい。オレ。嬉しい。オレ嬉しい。クーラー。リモコン。ボタン。押す。涼しい。風。ん? 涼しい風。涼しい風。頭冷える。
あーうー。頭冷える。思い出す。頭冷える。思い出す。言葉。ん? 頭冷えると思い出す。夏が来れば思い出す。違う。頭冷えると言葉思い出す。頭冷えるとだんだん言葉思い出す。もう一杯ヱビスあるか。ないか。あるなら嬉しい。ないと悲しい。あった、ので、飲む、と、オレ嬉しい。頭冷えたので思い出した。フォーラム。宣伝文。書かないと怒る。誰が怒る。奥田と久木田と和泉が怒る。ので、書こう。
…というわけで、ようやく言語を回復することができました。蒸し暑さゆえに言葉を失いがちな今日この頃、みなさまいかにお過ごしでしょうか。名古屋哲学フォーラムの御紹介です。ひところ言語起源論は、どうせ思弁でしょということで、研究ご法度に近い状態でしたが、近年になって、勇気ある生物学者、言語学者、心理学者たちによって、「進化言語学」とか「生物言語学」という新分野として復活しつつあります。これは、哲学者としても無視できませんね。勉強しましょう。今回は、言語能力の科学という生成文法の初心を忘れず、日本における言語進化研究を牽引してきた藤田耕司さん、現代言語学と脳科学の境界で意欲的な仕事をがんがんなさっている成田広樹さんというお二人の言語学者に、生物学の哲学の第一人者である大塚淳さんがからむという豪華絢爛たる企画です。終了後は、恒例の懇親会。ビールであーうーしましょう!
会場へのアクセスについては、以下をご参照ください。
http://www.nanzan-u.ac.jp/Information/access.html#01
http://www.nanzan-u.ac.jp/CMAP/nagoya/campus-nago.html
以下、各提題者の発表要旨です。
成田広樹(言語学,東海大学)
人間はどのような生き物か。なぜ人間だけがことばを話すのか。人間が話すことばはどのようなものなのか。人間はどのようにことばを学ぶのか。――これらの問いを考えるために、まず、人間はとどのつまりは単なる一生物(ホモ・サピエンス、ヒト)にすぎず、他の生物種と全く同様に、ゲノムをもとに設計され、生まれ落ちた環境下で生物物理学的な自然法則のもとに成長していく「自然物」であることを思い出そう。とすれば、ヒトをつくりだす要因には、①遺伝的特性、②環境、③自然法則の少なくとも3つがある、ということになる。②、③の要因については、ヒトと他の生物種との間に根本的な差異は存在しないので、「ことばを話す」などのヒト固有の特性は、ほぼ確実に①によって規定されているに違いない。本講演では、人間言語の固有性を支える①の理論(普遍文法)について、生成文法研究が生み出してきた知見を概観する。また、ヒトは言語以外にも、数学、心の理論、推論、科学等、多様な認知能力を示すが、普遍文法(①)のヒト固有性が、いかにしてそれらの他の固有的認知能力と関わっていると考えられるかについても論じてみたい。
大塚淳(哲学,京都大学)
ダーウィンとウォレスによって提唱された自然選択による進化の説明は、生物学を超えて、幅広い文脈で適用・応用されてきた。その一方で、進化を容易に最適化過程と結びつける見方は適応主義として批判されてきた。行動や言語など、複雑な発生過程や社会環境を前提として成立する形質の進化的由来は、どのように説明されうるのだろうか。本発表では、現代生物学哲学における議論を足がかりに、この問題について考えてみたい。
「生成文法は進化言語学や生物言語学にどう貢献できるのか(または,できないか)」
藤田耕司(言語学、京都大学)
言語能力を人類固有の生物学的形質ととらえ,その生得的基盤(普遍文法)を仮定する生成文法にとって,言語の起源・進化は当初からの検討課題であったが,実質的な議論が行われるようになったのはごく最近になってからである.その一因としては,過去における言語能力のモデル化がダーウィン進化的説明を拒むほど複雑なものであったのに比べ,現在の極小主義が想定する言語の設計は極めて簡潔であり,適応価を考慮した進化的考察が行いやすいものになっていることがあげられる.特に,言語能力はほとんどが本来は言語とは無関係に進化した下位機能(前駆体)の結合であるとし,また普遍文法の内実を基本演算操作「併合 (
Merge)」に絞り込んだことによって,今日では進化的妥当性を充足し得る理論構成が可能となっている.その一例として発表者の「併合のみの言語進化」の仮説を紹介する (Fujita 2016, 2017).
その一方で,高い学際性が求められる言語進化研究において生成文法や理論言語学が果たす役割は非常に限定されており,場合によってはむしろ有害となることさえある.これまでの生成文法研究が一定の成功を収めてきたのは,言語について断片的な見方をとってきたためでもあるが,それが進化言語学や生物言語学に及ぼす悪影響も看過できない.Hauser et al. (2002) による広義言語機能・狭義言語機能の区分はその一例であるが,同様の例を他にもいくつか考察した後,現代の進化生物学の潮流 (Extended Synthesis) ともよりよく整合する言語進化のシナリオ構築への提言を行う.この方向に沿うものとして,本年度から立ち上がった新学術領域「共創言語進化」を紹介したい.
名古屋哲学フォーラム2016秋のお知らせ
はいみなさんこんにちは。夏休みはいかがですか。さあ9月はみなさんお待ちかねの名古屋てつがくフォーラムですよ。これ、はじめてシンギュラリティやるんですよ。みなさんはじめて、フォーラムでシンギュラリティ論お聞きにになるんですよ。シンギュラリティ何でしょう。あのね、人間よりずっと賢い電子頭脳できる日のことですね、はいー。そういう電子頭脳でてくる映画たくさんありますねー。『ターミネーター』。シュワルツネッガーでてました。アーノルト・シュワルツネッガーでてました。どこまでもどこまでもどこまでも、追いかけてきますねー。上半身になっても、腕だけになっても、あの、リンダ・ハミルトン。リンダ・ハミルトンおっかけておっかけておっかけるところ。怖かったねー。でも、『ターミネーター』、もう一つ電子頭脳でてきます。スカイネット。これがターミネーターつくりました。ただでもみなさんより賢いのが、自我に目覚めるんですね。で、人間は敵だと考えちゃうんですねー。だから、スカイネットは決めました。人類を滅ぼそう。そう決めましたねー。それで、ターミネーターつくりました。人間が作った電子頭脳で人間が滅ぼされる。まあー、このことのこわさ。い・か・に・も、ゾッとしますねー。
そうねー。でも、このあたり、もっと考えなけりゃイケマセン。このシナリオホントにホントかしら。リアルかしら。そのところ考えなけりゃいけません。そこで、今回はシンギュラリティやることにしました。「人工知能とのほどよい付き合い方―シンギュラリティ後の法、経済、倫理」って題ですね。長い長い長い題です。そして、あのね、登場人物。はい、これが豪華なんですねー。まず、井上智洋さん。この方が、シンギュラリティ後の経済についてお話しくださいます。それからシンギュラリティと法・制度について考えてくれるのが、赤坂亮太さん。哲学代表が、西條玲奈さん。この人がシンギュラリティと倫理についてやります。それから、今回はコメンテーターもいるんですね。豪華ですねー。はい、コメンテーターお願いしました。これが大澤博隆さん。ヒューマン・エージェント・インタラクションがご専門で、最近は人工知能に人狼ゲームをプレイさせてます。そうねー、人狼も怖いですね。たくさん映画作られました。『倫敦の人狼』『ハウリング』『ウルフマン』…たくさん作られました。はい、みんなみんな怖いですね。
さあ、もうこれ以上は申しませんね。これからますます面白くなるんですけどそれはもうしません。はい、もう時間きました。それでは9月をご期待ください。じっくり楽しんでくださいね。さよならさよならさよなら。
会場へのアクセスについては、以下をご参照ください。
http://www.nanzan-u.ac.jp/Information/access.html#01
http://www.nanzan-u.ac.jp/Information/navi/nagoya_main.html?16_2_7
以下、各提題者の発表要旨です。
赤坂亮太(慶應義塾大学)
シンギュラリティが現実のものとなるかならないかにかかわらず、AIやロボットは、一定の法的問題を引き起こすものであるという考え方がある。特に、その自律的な振る舞いにより何らかの損害を生じさせてしまった場合に、人間がその因果系列に深く関与しないことから、誰がどのような範囲で責任をとるべきなのかといった議論はその典型的なものである。 本講演においては、ロボットやAIが引き起こすとされる法的問題についてCalo(2014)らの議論をベースに概説したのち、特にAIやロボットによる事件が起こった際に最初に問題になるであろう民事責任を中心に、ロボットやAIに関する法的責任について論じたい。
井上智洋(駒澤大学)
「人工知能は人々の労働を奪うか」といった問題が最近注目を集めている。このような問題を論じるには、人工知能を「特化型人工知能」と「汎用人工知能」に分けて考える必要がある。音声アシスタントのSiriや検索エンジンのGoogleなど今ある人工知能は全て「特化型人工知能」である。
汎用人工知能は、人間の脳と同じように様々な知的振る舞いをこなすことのできる人工知能であり、この世にはまだ存在しない。しかし、2030年頃には汎用人工知能の開発のめどが立つと言われている。
既存の人工知能である特化型人工知能が雇用に及ぼす影響は、これまでの耕運機や自動改札機などの機械とそれほど変わらない。しかし、汎用人工知能は今ある資本主義の経済構造を抜本的に変革してしまう恐れがある。人々の労働のほとんどを根こそぎ奪う可能性があるからだ。
今の資本主義を「機械化経済」と呼ぶのであれば、汎用人工知能によって可能となる経済を「純粋機械化経済」と呼ぶことができる。後者は、労働者の介在なしに機械が自動的に財を作り出す極度にオートメーション化された経済を意味する。2030年頃に汎用人工知能が登場するならば、その時から徐々に純粋機械化経済へと移行していくものと予想される。
純粋機械化経済では労働者の収入がなくなり、資本家以外食べていくことが難しくなる。このような経済に妥当な政治制度はいかなるものか。ソ連型社会主義だろうか。ベーシックインカムだろうか。未来の経済、政治、社会のあるべき姿について論じたい。
「シンギュラリティ後の人類が傷つきやすさの悪循環に陥ることを防ぎ、自律的かつ真正な生を送るための穏健なる倫理学的提案」
西條玲奈(北海道大学)
「シンギュラリティ」とは人の作り出した機械が人よりも優れた知性を獲得する段階を指す言葉であり、しばしばその機械がさらに知的に優れた後続する機械を作り出す状況と併せて言及される。Chalmers(2010)で論じられるように、シンギュラリティが概念上も実践上も真剣な考慮に値するならば、人より知的な機械の登場が人の倫理的状況に与える影響の有無もまた問題となるだろう。本稿ではこの問題を、シンギュラリティ後の社会において人が新たにさらされる傷つきやすさ(vulnerability)の問題として論じたい。傷つきやすさとは、病気、傷害、自然災害、社会的孤立、貧困、差別など、人が自分の信念や欲求にもとづく行為を妨げる危害の被りやすさのことである(Mackenzie et al, 2014)。ここで論じる問いは以下の2つである。(1)人の傷つきやすさにとって知的な機械の登場による恩恵や脅威は何であるか。これらはいずれも、人が社会生活の中で知的な機械に依存する度合いが強まるゆえに生じると考えられる。(2)その結果生じる不利益から自分たちの利益を守り自ら管理する方法は何か。これを検討するには、人のあいだでも特定の個人や集団だけが被りやすい傷つきやすさへの対処法から示唆を得られると考えられる。これらを通じ、現在の時点でわれわれがどのような倫理的問題を考えるべきかを明らかにしたい。
今回の名古屋哲学フォーラムは、科研費基盤B「シンギュラリティと人類の生存に関する総合的研究」(代表者:戸田山和久)による研究活動の一環として開催されています.
名古屋哲学フォーラム2015秋のお知らせ
会場へのアクセスについては、以下をご参照ください。
http://www.nanzan-u.ac.jp/Information/access.html#01
http://www.nanzan-u.ac.jp/Information/navi/nagoya_main.html
以下、各提題者の発表要旨です。
村井俊哉(京都大学)
精神医学は医学の一分野である。しかし、単一学問領域内で働く専門家集団が基盤となる方法論を互いに共有していない程度においては、精神医学は医学の中でおそらく突出している。
基本的なパラダイムさえ共有できていないということが、進歩を続ける他の医学分野から精神医学が遅れをとっている原因であるとの見解もある。しかし、この混沌とした状況は、現代精神医学の未熟さの現れではなく、精神医学という学問に内在する必然であると、演者は考えている。
そして、こういう混沌とした学問領域においては、科学哲学が諸問題の交通整理に有用であることを、レイチェル・クーパーの「精神医学の科学哲学」と、「DSM-5を診断する」の2つの著書は示している。
演者は、精神医学の専門家としての立場から、科学哲学、あるいは哲学全般に次のことを期待している。すなわち、1)平易な言葉で、2)論理的な明晰さをもって、3)現場の関心からかけ離れない問題を、4)政治的・思想的な意味で結論を先に決めてしまわず、精神医学という(おそらくは哲学者にとっては魅力的な)素材をエレガントに料理していただくことである。
谷山洋介(東京大学)
躁状態(軽いものは軽躁状態と呼ぶ)は、双極性障害 の診断に必須の症状であり、多幸感や怒りといった情動を基調とする。この症状は、哲学的に見ても興味深い考察対象である。なぜならば、躁状態のうちのあるものは主観的な側面から考えたさい、一切の否定的な感情を欠いており 、一種の立場からすれば幸福とすら呼びうる状態であるからである。しかし、当事者の手記記述を参照すると、一切の明示的な不安を欠いていることを示す記述がある一方で、他方、当事者の主観的経験の中に暗黙のうちに何らかのネガティブな要素を示唆する記述も存在する 。このような、感じられてはいない暗黙のネガティブな要素を、暗黙の不安と呼ぼう。しかし、暗黙の不安はいかにして理解可能だろうか。感じられていないのであれば、不安ではないのではないか。躁状態にある当事者が(暗黙のうちに)不安であると主張するためには、主観性、その中でも特に情動性(affectivity)についての哲学的考察が必要となる。現象学的精神病理学者であるFuchs (2013)は、情動性を感情、情動、気分、雰囲気、実存的感情の5つに分類した。本発表では、分析哲学での情動に関する議論や認知科学者の情動論、現象学での概念などを交えつつFuchsの区分を批判的に継承することで、躁状態の背後にある暗黙の不安が、このうち気分の一種であると主張する。これにより、暗黙の不安は少なくとも理解不可能な概念ではなくなる。
精神分析学からみた宗教哲学————鈴木大拙における「もったいない」の概念について
舟木徹男(NPO法人京都アカデメイア)
現在では精神医学の対象である心の病苦の治療は、前近代においては————部分的には近代以降も————主として宗教によって引き受けられていた。したがって、宗教による治癒の内実を精神医学の立場から照射することは、宗教理解のためにも、また、精神医学における治癒概念の彫琢のためにも資するところがあると思われる。本発表では、近代日本の代表的な宗教思想家である鈴木大拙が宗教心理の本質を表すとした「もったいない」という語を、力動精神医学の代表的思想家であるフロイトの神経症理論によって読み解くことを試みたい。フロイトは、神経症の治癒を阻害する患者側の要因として、神経症を病んでいることで様々な恩恵を得る機制(疾病利得)と、神経症からの治癒という恩恵を無意識の罪悪感ゆえに退ける機制(陰性治療反応)の二つを挙げている。この両者が「もったいない」という語がもつ通常の二義、すなわち「惜しい」と「畏れ多い」に対応することを指摘したうえで、両者の循環的関係が解消されたところに可能になる神経症の治癒が、大拙の言うところの「もったいない」体験に対応する、という解釈を提示する。さらに大拙がこの語を「有り難い」と同義とし、また宗教体験を「下されもの」と表現していることを手掛かりに、神経症の治癒におけるアンビバレンスの解消や、宗教における赦しの契機について、「贈与としての治癒・救済」という視点から考察してみたい。
今回の名古屋哲学フォーラムは、2015年度南山大学パッヘ研究奨励金1-A-II(鈴木貴之)による研究活動の一環として実施されています。
名古屋哲学フォーラム2014秋のお知らせ
連日暑い日が続いていますが、みなさんお元気にお過ごしでしょうか。夏ばてで食欲が落ちてしまうと万病の元であります。そこで、食欲回復によい、山形の郷土料理「だし」をご紹介します。キュウリを一本、1辺5ミリくらいの立方体になるよう細かく切ります。茄子も一本、生のまま同様に切ります。大葉、ミョウガは細かく刻みます。醤油を少し垂らしこれらをまぜまぜします。お好みによって、長いもをやはり1辺5ミリの立方体に刻んで加えてもよいでしょう。これをあたたかいご飯に載せて食べると、じつにおいしいものです。不思議なもので、醤油より出汁の方がおいしいだろうと、ソウメンのつゆを使ったりすると、かえっておいしくありません。シンプルな醤油が一番。ぜひお試しあれ。
さて、今年の名古屋哲学フォーラムは新機軸ですよ。社会科学の哲学をテーマに開催します。これまでなかったテーマです。経済学、社会心理学を題材に、社会科学の方法論、モデルの役割、文化相対主義をどうするかなど、熱く議論しましょう。熱い議論のあとは、例によって例のごとく、さらに熱い懇親会に突入です。熱い西日を背に受けながら、懇親会場に突撃しましょう。みなさんの参加をお待ちしています。
で、「だし」の話と社会科学は何の関係があるのかって?とくにありません。これもまた新機軸でしょ?
会場へのアクセスについては、以下をご参照ください。
http://www.nanzan-u.ac.jp/Information/access.html#01
http://www.nanzan-u.ac.jp/Information/navi/nagoya_main.html
以下、各提題者の発表要旨です。
瀧澤弘和(中央大学)
20世紀の半ばあたりまで,経済学は合理的経済主体を前提とした「公理論」的な構成を持つ学問領域だと思われていたが,1990年頃から,経済学以外の人間・社会科学の諸分野からの影響を受けつつ,従来と異なるアプローチを採用する実験経済学,行動経済学,神経経済学といった新分野が立ち上がるに至った.この間の経緯を,従来前提としていたような合理的主体というフィクションは所詮無理な想定であり,そこからの乖離は「当然の成り行き」であるとする見方がある.しかし,これまでもかなり長い間,合理的経済人の想定に無理があることが指摘され続けてきたにもかかわらず,経済学はその批判を受け付けてこなかった.それは何故なのか.また,今後は,非現実的な想定に基づく経済モデルは無用の長物と化す運命にあると考えていいのだろうか.
こうした問題を考えてみると,経済学と現実世界との関係はそれほど単純なものではないことがわかるのではないかというのが私の話したいことである.むしろ,モデルを立てることを通して現実について理解し,説明しようと試みる経済学という描像をより正確に理解することが必要なことなのではないだろうか.経済学者が経済分析を通して具体的にどのように現実について語ろうとしているのかという場面に即して,この問題について考えてみたい.
文化相対主義の克服--道徳的/慣習的規則の区別に関する論争を手がかりに
吉田敬(東京大学)
本発表の目的は道徳的/慣習的規則の区別に関する論争を手がかりに、文化相対主義の問題点を検討することである。人間が暮らす社会や文化は多様であることが知られている。そうした社会的/文化的多様性に基づき、文化相対主義を擁護する人類学者もいる。あるいはクリフォード・ギアツのように、相対主義に与することなく反相対主義を批判しながらも、相対主義的傾向が人類学に内在することを認めるものもいる。しかし発達心理学においては、道徳的/慣習的規則の区別は社会や文化の違いを越えて発達し、しかもそれは子供のうちに生じると論じることで、文化相対主義が批判されている。しかし、こうした区別そのものが個人主義的な特定の文化に基づくものであり、何ら普遍性を持つようなものではないという反批判も行われている。本発表では、エリオット・テュリエルとリチャード・シュウィーダーとの論争及び、それを吟味しシュウィーダーに軍配を上げたジョナサン・ハイトの議論を踏まえ、文化の多様性を擁護しつつ文化相対主義の克服を試みる。
ランダム化とその制約:社会心理学におけるランダム化対照実験デザインの使用慣行に対する批判的検討
岩月拓(ピッツバーグ大学)
(研究デザインに関する議論になじみのうすい人は付録から読んでください)
社会心理学において、ランダム化対照実験は長期にわたって標準的研究デザインであり続けている[注1]。その理由のひとつは、この研究デザインから得られる結果が、内的に妥当な因果推論を行うための、現実的制約下で入手可能なものの中で最善の証拠をあたえる、と考えられているためである[注2]。本発表で私は、この考えおよびそれにもとづくランダム化を研究デザインのデフォルト要素とする研究慣行を批判的に検討し、現状よりも多様な研究デザインを用いて社会心理学の研究を行うことが望ましいと論じる。
以下、論証の概要を述べる。第二節では、ランダム化を採用する方法論的根拠はしばしばその因果推論における有用性に求められるため、それが実際にはどの程度有用性を持つのかを、ランダム化を推奨する諸論証を批判的に検討することで明らかにする。たとえば、実験群と統制群の類似性にもとづく論証に対しては、そのような類似性が保証するのは集団レベルの因果推論の妥当性だけであり、ランダム化の対象となる単位レベル(多くの場合は個人レベル)の因果推論の妥当性は保証されないと論じる[注3]。また、ランダム化の持つ交絡因子の排除能力に訴える論証に対しては、エバハートによる介入概念の分析[注4]を参照枠としてランダム化はいくつかの種類の交絡因子を排除できないと論じる[注5]。
次に、第三節では、ランダム化の過度な重視は社会心理学研究にとって好ましくない帰結をもたらしうると論じる。まず、ランダム化を研究デザインのデフォルト要素とすると現実的に採用しうる研究デザインの幅が大きく狭められてしまうと主張する。たとえば、小標本サイズ研究デザイン、系統的統制実験デザイン、フィールド研究、縦断的研究(longitudinal study)、変数間の複雑な関係を明らかにするための統計手法などの使用頻度は少なくなるだろう。さらに、そのような方法的多様性の不足が社会心理学理論の発展の妨げとなる可能性が示唆される[注6]。
ついで、第四節では、第二節で示されたランダム化の有用性の程度と第三節で示唆されたランダム化の副作用を比較考量し、社会心理学におけるランダム化を研究デザインの標準要素とする現在の研究慣行は望ましくない、と結論する。
最後に、ありうべき誤解を未然に防ぐために二点付け加えておきたい。まず、本発表では、ランダム化の採用が必ずしかじかの帰結を引き起こすというような原理的な主張は行わない。本発表が目指すのはあくまで、入手可能な資源(お金、時間、実験参加者など)の制約を考えたときランダム化重視の研究慣行がどのような負の帰結をもちえるか、それを避けるためには研究デザインがどのように分布することが望ましいかに関する主張を行うことである。また、本発表の主眼はランダム化そのものではなく特定の文脈におけるその使用慣例の検討にあり、ランダム化自体の有用性の評価については既存の哲学的研究に新しい論点を付け加えることはできない。
付録:要旨に登場するいくつかの用語の概説
因果推論、交絡因子、ランダム化
社会心理学における経験的研究の目的は多くの場合、心理変数や環境変数がどのように因果的に関係するかを確かめることにある[注7]。いまある社会心理学者が、ある人があるコミュニティーに加入する際に大変な加入儀式を経験したか否かが、加入後のその人によるそのコミュニティーの魅力に対する評価に影響する否かに関心があるとしよう[注8]。まず、儀式経験の有無が魅力評価の原因のひとつであるという因果仮説をテストするための理想的な研究がどのようなものか考えてみよう。因果推論に関するある考え方によれば[注9]、この仮説に関する証拠を得るための理想的な実験は、年齢や性格特性など全ての変数の値において同一である二人の実験参加者を用意し、一方を加入儀式を経てあるコミュニティーに加入させ、他方を儀式なしに同一のコミュニティーに加入させた後、儀式経験の有無によって二者間でそのコミュニティーの魅力に対する評価に差が出るかを確認するというものである。しかし、現実問題として全ての変数の値において同一である人間を二人用意することはできない。そのため、仮に儀式経験有りの参加者と無しの参加者の間でそのコミュニティーの魅力に対する評価が異なったとしても、その違いが儀式経験の有無によるものであるかどうかは不明瞭である。なぜなら、儀式経験の有無とは別の変数における参加者間の差(たとえば年齢差)がそのコミュニティーの魅力に対する評価の差を引き起こしているかもしれないからである。このような研究対象である諸変数と相関関係を持ち因果推論の妨げとなる変数を交絡因子(confounder)と呼ぶ。問題は、現実の実験参加者はわれわれの考えが及ばないものも含め無数の変数において異なり、それらの変数が交絡因子である可能性が否定できないという点である。
このような認識のもと、次善の策として用いられるのがランダム化(randomization)またはランダム割り当て(random assignment)と呼ばれる手法である。この手法を用いた実験においては、実験参加者の集団が用意され、個々の参加者は二つの集団(実験群と統制群などと呼ばれる)のいずれかに割り当てられる。その際、ある参加者が実験群と統制群のいずれに割り当てられることになるかはランダムなプロセス(たとえば、偏りのないコインを投げて表が出たら実験群に裏が出たら統制群に割り当てるなど)によって決定される。この手法をランダム化と呼ぶ。因果推論におけるランダム化の有用性を強調する論者はしばしば次のように主張する。十分な数の実験参加者を用意することができれば、ランダム化によって実験群と統制群は高確率で、参加者が持つ全変数の値において十分に似通った分布を持つことになる。たとえば、二つの群の年齢構成は似たものになる。ここで、実験群に割り当てられた全参加者を加入儀式を経た上であるコミュニティーに加入させ、統制群に割り当てられた全参加者を儀式無しで同一のコミュニティーに加入させたところ、コミュニティーの魅力に対する評価の平均値が二群間で異なることがわかったとしよう。このとき、二つの群は実験参加者に関する儀式経験と魅力評価以外の全変数の値において似通った分布を持ち、経験の有無は魅力評価に時間的に先行するのだから、魅力評価の分布における二群間の差は経験の有無の分布における差によって引き起こされたと考えられる。ゆえに、この実験結果は儀式経験の有無は魅力評価の原因のひとつであるという因果仮説に対する証拠となる。以上がランダム化を用いた実験に基づく因果推論に対する正当化の一例である[注10]。
内的妥当性と外的妥当性
研究デザインに関する議論においてはしばしば、ある研究結果からある結論への推論を評価する際、その推論の内的妥当性(internal validity)の評価と外的妥当性(external validity)の評価が区別される[注11]。内的妥当性とはある結論が当の研究状況において成り立つとする推論の妥当性のことであり、外的妥当性とはその結論がその研究状況を以外の状況においても成り立つとする推論の妥当性のことである。上述の例でいえば、実際に行われた当の実験において儀式経験と魅力評価の間に因果関係があったとする結論への推論の妥当性は内的妥当性であり、その実験状況とは別の状況でも儀式経験は魅力評価の原因のひとつであるとする結論への推論の妥当性は外的妥当性である。研究デザインをめぐる議論においては、ランダム化対照実験デザインは外的に妥当な推論を行ううえでは他の研究デザインに劣りうるが、内的に妥当な推論を行うための研究デザインとしては最善のものであるという主張がなされることがある[注12]。本発表の検討対象のひとつはそのような主張である。
注
[注1] ランダム化対照実験の普及時期については(Higbee & Wells, 1972, p. 964; Rucci & Tweney, 1980)を参照。昨今の社会心理学研究においてどの程度用いられているかは、現在調査中。
[注2] たとえば、(Wilson, Aronson, & Carlsmith, 2010, pp. 54, 59; Brewer & Crano, 2014, pp. 13-14)など。
[注3] 関連するがやや異なる議論として、(Guala, 2005, pp. 133-134)がある。
[注4] (Eberhardt, 2007, pp. 32-36)
[注5] 同様の試みとして(Steel, 2011, pp. 168-173)がある。
[注6] この論点は、(Blaich & Barreto, 2001, p. 405)のアイディアを発展させたものである。
[注7] 本発表では、ウドワードに倣って変数とは二つ以上の値を持つ性質のこととする(Woodward, 2003, p. 39)。たとえば色という性質は赤、青、緑、などの値をとる変数である。他にも変数を種をなす諸出来事(events of a kind)であるとするスピアテスらの立場などがあるが(Spirtes, Glymour, & Scheines, 2000, sec. 3.2.2)、本発表では変数の存在論には立ち入らない。変数間の因果関係に関する哲学的分析としてはたとえば(Woodward, 2003, chs. 2-3)がある。
[注8] 以下の例はAronsonとMills(1959)の実験にいくつかの変更を加えたものである。
[注9] たとえば、ミルの差異法(Mill, 1973, p. 391)やグアラの完全統制実験デザイン(Guala, 2005, pp. 65-69)などにみられる考え方。
[注10] ランダム化にもとづく因果推論を正当化する論証は他にもいくつかあるが、全ての論証を説明していると要旨がさらに長くなるのでここでは取り上げない。発表ではそれらの論証も検討する予定である。また、本発表では、実験における二群間の分布の差が偶然の産物ではないと仮定したときその差が因果推論に関してどのような証拠となるかという問題のみを検討対象とし、ランダム化と統計的検定の関係に関する問題の検討は別の機会にゆずりたい。
[注11] たとえば、(Cook & Campbell, 1979, ch. 2)を参照。推論の妥当性の他の要素として構成概念妥当性(construct validity)や生態学的妥当性(ecological validity)などもしばしば言及される。
[注12] [注2]を参照。
参照文献
Aronson, E., & Mills, J. (1959). The effect of severity of initiation on liking for a group. The Journal of Abnormal and Social Psychology, 59(2), 177-181.
Blaich, C. F., & Barreto, H. (2001). Typological thinking, statistical significance, and the methodological divergence of experimental psychology and economics. Behavioral and Brain Sciences, 24(03), 405.
Brewer, M. B., & Crano, W. D. (2014). Research design and issues of validity. In H. T. Reis & C. M. Judd (Eds.), Handbook of Research Methods in Social and Personality Psychology (2nd ed., pp. 11-26). New York: Cambridge University Press.
Cook, T. D., & Campbell, D. T. (1979). Quasi-Experimentation: Design & Analysis Issues for Field Settings. Boston: Houghton Mifflin.
Eberhardt, F. (2007). Causation and Intervention (Ph.D. Dissertation). Carnegie Mellon University, Pittsburgh, PA.
Guala, F. (2005). The Methodology of Experimental Economics. Cambridge: Cambridge University Press.
Higbee, K. L., & Wells, M. G. (1972). Some research trends in social psychology during the 1960s. American Psychologist, 27(10), 963-966.
Mill, J. S. (1973). Collected Works of John Stuart Mill (Vol. VII; J. M. Robson, Ed.). Toront: University of Toronto Press. (Originally published as A System of Logic, Ratiocinative and Inductive: Being a Connected View of the Principles of Evidence, and the Methods of Scientific Investigation, Books I-III, 1843-1872)
Spirtes, P., Glymour, C. N., & Scheines, R. (2000). Causation, Prediction, and Search. (2nd ed.). Cambridge, MA: MIT Press.
Steel, D. (2011). Causal inference and medical experiments. In F. Gifford (Ed.), Philosophy of Medicine (pp. 159-185). Amsterdam: Elsevier.
Rucci, A. J., & Tweney, R. D. (1980). Analysis of variance and the "second discipline'' of scientific psychology: A historical account. Psychological Bulletin, 87(1), 166-184.
Wilson, T. D., Aronson, E., & Carlsmith, K. (2010). The art of laboratory experimentation. In S. T. Fiske, D. T. Gilbert, & G. Lindzey (Eds.), Handbook of Social Psychology. (5th ed., pp. 51-81). Hoboken, NJ: John Wiley & Sons, Inc.
Woodward, J. (2003). Making Things Happen: A Theory of Causal Explanation. New York: Oxford University Press.
今回の名古屋哲学フォーラムは、平成26年度科学研究費助成事業 若手研究(B)「内部告発の多角的分析を通じた「規範性の境界」に関する哲学的研究」(研究 課題番号24720018 研究代表者:奥田太郎)、同じく若手研究(B)「自由意志と道徳的責任の判断にかんする心理的メカニズムの実験哲学研究」(研究課題番号 25770013 研究代表者:鈴木貴之)、同じく挑戦的萌芽研究「幸福の哲学を経験科学と繋ぐための基礎的研究」(研究課題番号25580007 研究代表者:鈴木真) の研究活動の一環として実施されています。
名古屋哲学フォーラム2013秋のお知らせ
名古屋では、からりと晴れたり土砂降りになったりと、どうも天候不順ですが、みなさまどうお過ごしでしょうか。さて、若手の方々が世話人を務めてくださるようになってから二度目の、名古屋哲学フォーラムのご案内です。なぜか案内は旧人類が書いています。
ペ・ドゥナ主演の話題作『空気人形』の原作者、漫画家の業田義家せんせいが、どこかで、ついに人間は何のために生きているか分かったと書いていました。真・善・美だそうで。うーん、まさに哲学。このうち、真と善は当フォーラムで何度も取り上げてきましたが、まだ美について扱ったことはなかったと思います。旧世話人一同、美は語るものではなく、己の身をもって示すものだと思っていたのでしょうか。だとしたら、とんでもない勘違い野郎たちでしたね。
さて、そこで世話人一新を機会に、そろそろ美について語ろうじゃんということになりました。というわけで、今回のお題は「美を語る資格があるのは誰だ? 心理学(脳神経美学) vs 科学哲学 vs 分析美学」であります。各分野からスピーカーをお招きして、タイトル通りオレがオレがと異種格闘技戦になるのでしょうか、それとも、「オメエなかなかやるじゃねえか」とばかり新たな友情=共同研究が芽生えるのか。予断を許しませんね。こりゃ参加しない手はありません。
いつもどおり、終了後は懇親会に突入です。会場からハマユウまで、後頭部を西日にあぶられつつビールビールとつぶやいて坂を登っていく、名古屋の晩夏の風物詩、今年もお楽しみに!
会場へのアクセスについては、以下をご参照ください。
http://www.nanzan-u.ac.jp/Information/access.html#01
http://www.nanzan-u.ac.jp/Information/navi/nagoya_main.html
以下、各提題者の発表要旨です。
脳は美の何について語り得るか
川畑秀明(慶應義塾大学)
実験心理学や脳神経科学を研究する一人として、ヒトが美をどのように感じるかを説セする難しさと限界については十分に承知している。そして、その議論が実験科学と哲学や美学との間でかみ合っていないことも理解している。しかし、まさに今、私の思考の原理は脳の複雑な仕組みと働きに支配され、美的経験や判断についての議論や枠組みについて述べようとするとき、その主としての脳の存在を否定することはできない。既に美を語る前提として脳はある。問題は、事実の理解ではなく、その問題の発端と解釈の枠組みにあると想定でき、その語りの言語の様相の違いにあるのだろう。
実験美学や神経美学に関する研究数は数百では収まらないほど膨大なものとなっている。その分野で何が問題になっていて、何がどこまで分かっているのかについてもほとんど整理されていないのが実体である。今回は、素直に、ラディカルな実験科学者として、その情報を整理し提供することで、美学や芸術哲学、科学Nwの研究者が抱える問題を解決する糸口として、実験美学や神経美学が有効であるのかを直接問うてみたい。そして、おそらくは批判的な議論を受けながらも、美学や哲学の研究者と実験科学者とが融合的に問題(あるいは語りの言語)を共有することが可能かを図りたいと思う。
とは言え、ある程度のトピックスを想定しておく必要があるだろう。〈美的判断の脳内基盤〉、〈問題解決としての美的体験〉、〈美と時間〉、〈選好と自由意思〉、〈現実と空想〉などについて述べてみたい。必ずしも脳研究のデータが十分にあるものばかりではな
く、その分は実験美学研究のデータが補完してくれるだろう。
そして、今現在の神経美学の実情として、脳が美の何を語りうるかについて話題提供したい。
美的経験と価値判断との間にある謎:来るべき共同研究に向けて
森功次(山形大学)
今回の会にお呼ばれするにあたって、「美を語る資格があるのは誰だ? 心理学(神経美学)vs科学哲学vs 分析美学」というお題を受け取った。この「vs」が明確には何を意味するのかは、主催者の方にお尋ねしてみないとわからないが、わたしとしては、美については様々な語り方があっていいと考えている。美学史をふりかえっても〈真理や調和の感覚的提示〉とか〈構想力と悟性の自由な戯れ〉〈脱現実の快適な没頭〉などと、美については様々な考え方が提出されてきた。これらの説はどれもそれぞれ、美的経験の重要な一側面を説明しており、どの説も「これのみが美の経験である」と強い主張をしないかぎり、貴重な知見を与えてくれる説として認めて良いだろう。さらに、美的経験がなんら特権的な経験ではないという昨今の共通見解をふまえると、ほとんどの人は美について語る資格をもっているのではないか、とすらわたしは思っている。
とはいえ、この芸術や美という不明瞭な事象が複雑に絡む領域ではまだまだ不明確なことが多い。そのため、ある分野で素朴に前提にしていることが、別の分野ではまったく自明なこととされていない、ということが多々ある。今回の会では、そうしたそれぞれの分野が暗に前提にしてしまっていると思われる箇所を互いに指摘し合い、各分野の知見をすり合わせることができれば、と考えている。この作業を通じて分野間にある無理解を解消し、来るべき共同研究に向けての道を切り開くことが出来れば、最高だ。
今回わたしは、哲学的美学者の側から提示できる知見として、美的経験と価値判断との関係について最近の知見と論争をいくつか紹介したあとで、各分野の研究者の知見を仰いでみたい。というのもここにこそ、統一的理解がはっきり確立されないまま保持されている、謎めいた概念がいくつかあるからだ。具体的にわたしが念頭に置いているのは、「無関心の判断」「それ自体で評価される経験」「悪趣味」「醜の美」といった概念である。さらに余裕があれば、美的判断のなかに見られる「スノッブ性」「B級趣味」をめぐる分析美学の最新の問題を紹介
できれば、と考えている。
哲学的美学と経験的美学
太田陽(名古屋大学)
本発表では、美を語ろうと試みているように思われる2つの学問分野をとりあげる。すなわち、分析美学を一例とする哲学の一分野としての美学(哲学的美学)と、Gustav Theodor Fechnerの実験美学から近年の神経美学にいたる心理学・認知神経科学の一分野としての美学(経験的美学)である。これら2つの学問分野の関係がどのようなものであるのか、とくに哲学的美学から経験的美学にむけられてきた批判が妥当なものと言えるのかどうかについて考察する。
哲学的美学の経験的美学にたいする反応の典型例として、1960年代に美学者George Dickieから当時の実験美学にたいしてむけられた批判を挙げることができる。Dickieは、美学のあつかう問題を「音楽は意味を持つことができるのか」といった「論理的問題」と、「感性的経験(aesthetic experience)とはどのようなものか」といった「心理的問題」の2種類に分類した上で、当時おこなわれていた経験的美学の研究はこれら2つの問題どちらの解決にも貢献しないとして、「心理学は美学と関係がない」と結論した。
大まかに言えば、哲学的美学とくに分析美学において、美(beauty)とは何かという問いは、ネガティヴな価値性質をもふくむ感性的なもの(the aesthetic)とは何かというより広い文脈の中で盛んに議論されてきた。一方、経験的美学においては、感性的判断(aesthetic judgment)や感性的経験の解明が目標として掲げられながら、快(pleasure)および選好(preference)に影響をおよぼす要因のみが探究され、美そのものが直接にあつかわれることはほとんどなかった。
本発表では、このような表面的な違いにもかかわらず、哲学的美学と経験的美学の取り組みには共通の要素があることを指摘し、Dickieの主張に反して、哲学的美学と経験的美学とのあいだには実りゆたかな協働が可能であることを示す。
名古屋では連日、からりと晴れた空が続いています。暑いです。洗濯日和です。
20年近く勤勉に働いてきた我が家の洗濯機(二槽式)がこの夏ついにリタイヤし、
全自動ドラム式の最新鋭機に交代いたしました。しかし最近の洗濯機は賢いです
なあ。おまかせ、お急ぎ、ナイト…いろんなモードがあるようで。私の論文書き
など、最近はお急ぎモードしか使ったことがなく、念入り仕上げモードなぞは存
在すら忘れかけております。
折しも、名古屋哲学フォーラムの世話人も一部リタイヤ、ということになり、
若手の方々が世話人を務めて下さることになりました。よろしくお願い申し上げ
ます。
さて、今回のお題は「自己知」であります。分析哲学の中でも、何だかとりわ
けテツガクっぽい話題ですね。ただし、若手世話人のアイディアにより、社会心
理学における自己研究の第一人者の遠藤由美さんをスピーカーにお招きして、今
回は異種格闘技戦の様相を呈しております。提題者お三方の発表要旨を拝見しま
すと、早くも波乱の予感が…。参加しない手はありません。
いつもどおり、終了後は懇親会に突入です。さて、懇親会は「ハマユウで夕食
を」の伝統は若手世話人に引き継がれるのでしょうか、それとも懇親会にも新機
軸が開拓されるのか、そのヘンもお楽しみに!
2012年度テーマ: 自己知ご関心のある方はふるってご参集ください。
日時: 2012年9月16日(日曜日)午後1時半より
会場: 南山大学名古屋キャンパスJ棟1階Pルーム
会場へのアクセスについては、以下をご参照ください。
提題者(敬称略):
http://www.nanzan-u.ac.jp/Information/access.html#01
http://www.nanzan-u.ac.jp/Information/navi/nagoya_main.html
遠藤由美(関西大学)“The Self in Social Psychology”
島村修平(東京大学)「いかにして私たちは自分自身の欲求を知るのか:認識論的実質性を伴う一人称権威」
宮園健吾(東京大学)「自己知、内語、思考挿入」
The Self in Social Psychology
遠藤由美(関西大学)
自分のことは自分が一番よくわかっている。これは、広く信じられているセン
トラル・ドグマである。社会のさまざまなシステムはこれを基盤として構築され、
心理学における自己についての諸研究も把握内容の分類などそのラインに沿って
展開されてきた。自分が何者であるかわかって初めて十全に機能する人間になれ
るのであって、自分のことが正確に捉えられない人は精神病理としてみなされた
のである。
しかし、20世紀末の「無意識革命」と称される潜在的過程の研究は、人は自分
の感情、意図、思考、行為などについてほとんどわかっていないことの方が多く、
またわかっていることが適切な思考・行動を必ずしも生み出すわけではないこと
を明らかにしつつある。
ここで改めて問わなければならないのは、自己とは何かである。人はこの地球
に誕生して以来、社会的動物(the social animal)であり続け常に他者ととも
に生きてきた。その中で自己があるとするなら、個人内で完結する安定的統合的
実体ではなく、我-他の関係においてそこに存在する自己という理解が必要では
ないだろうか。別の皮膚にくるまれた他者は、憧れ・協力といった自分の安全を
後押しする者、攻撃・排除といった安全を脅かす者などいろいろな形を取りうる。
そして、1人の他者が時には私と対峙し時には溶解し、その間で私はゆらぎ続け
る。人は日々他者の傍らで、私を生きるのである(相当部分は意識されていない
可能性)。
では、私が時折感じ取る「私は昔はこうだった。」などの意識にのぼる把握と
は何であるか。ここではそれを自己物語と呼ぶ。自己物語は、人生におけるその
人の姿をまるごと正しく反映したものではないだろう。しかし、自分の生きてき
た軌跡として、今なぜここにこうしているのか、そしてこれからどうなるのかの
理解・予想を提供し、過去E現在・未来をつなぎ、自分の人生に意味を与える、
そのような機能をもっていると考える。
いかにして私たちは自分自身の欲求を知るのか:認識論的実質性を伴う一人称権威
島村修平(東京大学)
通常、ある命題的態度を自分自身に帰属する際、私たちは、同じ態度を他人へと
帰属する時とは異なるやり方――帰属対象の言動を観察し、その観察に基づいて忖
度するのではないやり方――を用いているように思われる。そのやり方を、「一人
称的」と総称しよう。一人称的に生み出された自己帰属は、そうでない仕方で生
み出された同じ内容の帰属と比べ、通常はより信頼できるものとして扱われる。
しかし、そのような信頼性は一体何に由来するものなのか。これを「一人称権威」
の問題と呼ぼう。
分析哲学において、一人称権威の問題は、伝統的に信念(ときに意図)という
命題的態度に焦点を合わせ、取り組まれてきた。そうした取り組みの中で近年、
複数の哲学者が、権威を伴う一人称的な自己帰属は、同じ内容の普通の帰属とは
対照的に、実質的な認識を含んでいない、という論点を指摘している。この論点
は、信念と意図に対する一人称権威を念頭に置いている限り、その重要な特質を
捉えているという意味で、興味深い。しかし他方で、同じ論点は、これまで十分
な注目を集めてこなかった欲求に対する一人称権威に目を向けると、もはや当て
はまらないように思われる。すなわち、私たち自身の欲求は、信念や意図と同様、
一人称権威の対象であると同時に、それらとは異なり、実質的な認識の対象でも
あるように思われるのである。
本発表では、先行研究でしばしば見逃されてきた、この欲求に特有の一人称権
威の問題――私たちはいかにして自身の欲求を権威的に知りうるのか、またその知
り方はどのような意味で実質的な認識を含むのか――に取り組む。この取り組みは、
次の三ステップからなる。まず、議論のための下準備として、信念や意図に対す
る認識論的に実質的でない一人称権威を適切に説明しうる理論の代表として、透
明性説と呼ばれる説を導入する。その上で、一度信念と意図の一人称権威が説明
されれば、私たちはそこから、欲求を一人称的かつ権威的に自己帰属するための
手続きを構成できることを示す。最期に、この手続きに従って欲求の自己帰属を
行うことがどのような意味で実質的な認識を含んでいるのかを明らかにしたい。
自己知、内語、思考挿入
宮園健吾(東京大学)
気温が高いですねえ。ビール・プロトタイプベクトルが活性化しっぱなしの夏ですが、みなさんいかがお過ごしでしょうか。…と消去主義者風に挨拶してしまうほど暑いです。
暑いときには熱いもので暑気払いというのが、いにしえよりの日本人の知恵です。熱い風呂をひと浴び、そのあとコーヒー牛乳をごくごく、あるいは、ショウガをきかせた甘酒、あるいは、ネギをてんこ盛りのどぜう鍋と熱燗などなど。名古屋では、マグマのようなみそ煮込みうどん。おっと忘れちゃいけねえ、ホットな議論で燃えて、そのあとビール飲みに突入というのも名古屋の恒例行事でした。
というわけで、すでにお知らせしてありますように、名古屋哲学フォーラムを下記の要領で開催いたします。今年は猛暑にあわせて、とりわけホットなテーマをご用意しました。実験哲学vs.分析形而上学であります。哲学者の直観という虚妄を暴き、哲学のやり方に真のデモクラシーをもたらす革命、とコーフンしている方もいるでしょう。自然主義でもカリカリしているのに、実験哲学ぅ? また、そういう軽薄なものが流行る。ああヤダネー。そういう雑音は忘れて思う存分アプリオリに分析形而上学したいなあ、とお嘆きの方もいるでしょう。というわけで、さあ、議論しましょう。
実験哲学、分析形而上学、それぞれの側(の支持者ないし共感者)から、自分たちの哲学とその方法の正当化をどういう仕方でやろうとしているのか、相手のどこを批判するのかということを明らかにしたい、というのがこのテーマを取り上げた趣旨です。関心のある方はぜひ奮ってご参加くださいますようお願いいたします。
日時: 9月3日(土)2:00より
場所: 南山大学L棟9階会議室
テーマ: 「哲学の方法について考えるーー実験?それともア・プリオリに?ーー」
提題者: 鈴木真氏(南山大)「経験科学によって哲学的方法の信頼性を検討する試み(仮題)」
倉田剛氏(九州大)「人工物の存在論とその方法について」
小山虎氏(大阪大)「どうして存在論では実験哲学が流行しないのか(仮題)」
「経験科学によって哲学的方法の信頼性を検討する試み――想像と直観は真理探究に役立つのだろうか?――(仮題)」
鈴木 真
哲学、特に近年の分析哲学の分野の多くでは、想像と直観――直接的な洞察だと思えるもの――を使って主張を正当化したり反駁したりということが頻繁に行われている。たとえば、ある概念の分析(たとえば、知識とは正当化された真なる信念だ)の真偽を確かめるのには、その可能な反例(たとえば、正当化された真なる信念であっても知識ではない事例)に見える――だと直観される――ものがあるかどうかを想像しようとしてみる。そうした反例に見えるものがあれば、その分析は疑わしいものとみなされ、それがまったく発見できなければ、その分析がもっともらしいとみなされる。(形而上学的)様相――可能性や必然性――に関わる主張やそれを含意する言明については、思念(不)可能性(in)conceivabilityからの議論によって真偽を確かめようとすることが多い。たとえば、「必然的に、あらゆる性質は何らかの物理的性質と同一であるか、それに付随している」、といったある種の物理主義によって含意される主張を考えてみよう。それに対する可能な反例(たとえば、物理的性質については現実と同じなのに、何かの非物理的性質――たとえば、痛みの強さ――については現実と異なるシナリオ)がある意味で想像できる(ように見える)なら、そうした反例がおこることは可能であり、したがって物理主義的主張は疑わしいとみなされる。逆に、そうした反例がまったく想像できない(ように見える)ならば、そうした必然性の主張はもっともらしいとみなされる。また、反事実的条件文(たとえば、「私たちは、もし原初状態において完全に合理的あって関連する事実(だけ)をすべて知ったならば、功利主義でなく正義の二原理を選ぶだろう」)を評価する際にも、想像と直観が使われていることは疑いえない。しかし、哲学者でない人に、想像や見え(直観)が真偽を判定するのに役立つんですとか、哲学的主張のただしさは想像や見えでわかるんですとか言ったら、怪訝な顔をされそうである。哲学における想像と直観の使用は本当に信頼できるのだろうか?本発表では、特に実験哲学者と心理学者の想像と直観に関する仕事を参照しながら、この問題に取り組んでみる。
「人工物の存在論とその方法について」
倉田 剛
いまカフェのテラス席に座りこの原稿を書いている私を取り囲むもののほとんどはわれわれ人間が作り出したものである。テーブル、椅子、ノート型パソコン、マグカップ、煙草、マチスの絵画の複製、ビルディングなどの様々な建築物、舗装された道路の上を走る自動車、店のスピーカから聴こえてくるハービー・ハンコックの楽曲など、挙げ始めたらきりがない。こうしたものは、「自然物」との対比で、「人工物」(artifacts)と呼ばれる。人工物は「或る目的のために意図的に作られたもの」と規定されることが多いが、この意味において、私の目の前にある街路樹も、或る目的によって植樹され、剪定されている限り、(遺伝子操作をほどこされていないまでも)部分的には人工物であると言えるかもしれないし、時折店内から漏れ出してくる冷気もまた、エアコンを使って意図的に作り出されている限りにおいて部分的には人工物であると言えなくもない。このように私を取り囲む数少ない「自然物」でさえもその純粋さを維持していることは稀である。
われわれがまさにその中に生きていると言っても過言ではない人工物を包括的に扱った哲学的基礎研究は、しかしながらそれほど多くはない。その原因の一端は、「人工物」と呼ばれうる対象の驚くべき多様さと存在論的な複雑さにあるのではないか。その多様さについて言えば、先ほど例に挙げた机や椅子やコンピュータといった工業製品、絵画や建築物や楽曲といった(芸術)作品の他に、人工物には、貨幣や国家といった制度的対象、さらには法や理論や言語といったものまで含まれうる。
その存在論的複雑さについてはどうであろう。第一に、人工物の中には、もの(物理的対象)であるという側面と、そうでない(「抽象的対象」としての)側面を同時にもつように見える対象がある。大量生産されうる工業製品や複製を許す芸術作品はこうした対象の典型例であろう。例えば、われわれが「プリウス」と呼ばれる人工物について語るとき、われわれは街角でよく目にする個々のプリウスを指すこともあれば、プリウスという車種そのものを指すこともある。むろん、人工物におけるこの二重構造は「タイプ/トークン」という形而上学的区別を用いて或る程度まで分析することは可能である。しかしながら、こうした分析を容易ならざるものにしているのは、タイプとしての人工物が人為的に作られたものであり、したがって生成の時点を有する偶然的な対象であるという事実である。第二に、人工物の分析にタイプ/トークンの区別を適用することが正しく、かつ人工物に特有のタイプが存在論的に解明されうると仮定しても、その「トークン」とは何かという問題は依然として残る。例えば、小説という作品をタイプとして捉えた場合、そのトークンは物理的対象としての個々の冊子なのか、それとも読書という出来事(行為)なのか。音楽作品をタイプとして捉えた場合、そのトークンには上演といった出来事の他に、聴き手による聴取といった心的作用も含まれるのか。また、スコアといった物理的対象もそのトークンの範囲に入るのか。第三に、多くの人工物は「自己言及的」とでも言いうる特異な存在様態をもつ。サールの言葉を借りれば「貨幣は、われわれがそれを貨幣だと信じるときにのみ、貨幣である。しかしそれでも、それが貨幣であるということは客観的事実である」。考えてみればこれは奇妙なことである。というのも、このことは「われわれがそれが存在すると信じるときにのみ、存在するような対象の客観的なクラスがある」ことを認めることに他ならないからである。人工物の中には、このようにわれわれの信念・承認、あるいは「共同的志向性」から独立して存在しえないようなものも含まれる。
こうした多様性と複雑性は、人工物の統合的な存在論を構築することを妨げてきた大きな要因であると言えよう。だが同時に、伝統的存在論における主要なカテゴリー(「物的なもの」、「理念的なもの」、「心的なもの」)が交差する人工物の領域は、現代の存在論者たちにとって取り組むべき価値をもつ、興味深い領域でもある。本発表において、われわれは人工物の複雑な存在論的構造を、主に例化関係(実現関係)と依存関係という二つの形式的道具立てを用いて体系的に分析することへの足掛かりをつかみたい。
本発表は、基本的には、人工物という特殊な分野に関する領域的存在論を扱うが、今回のフォーラムのテーマである「哲学の方法」にとっても何らかの示唆を与えうると確信している。ここで採用される哲学的方法は或る種の「概念分析」とでも呼べるものであり、一般的に、それは近年の「方法論的自然主義」と対立すると考えられている。われわれは、領域的存在論を論じることを通して、こうしたメタ理論的な諸概念にも言及し、哲学に固有の方法を擁護する予定である。
参照する予定の諸研究
「人工物の存在論」は未だ確立した分野ではないが、われわれの発表の背景には次の諸研究があることをあらかじめ記しておく。
(1)ウォルターシュトーフらによる作品のタイプ存在論(Wolterstorff 1980)。近年ヨーロッパにおいてライヒャーやドッドらが精力的に展開している(Reicher 1998; Dodd 2007)。
(2)インガルデンとその影響を受けたトマソンによる依存的対象あるいは抽象的人工物の存在論(Ingarden 1962; Thomasson 1999)。
(3)サールによる社会的・制度的対象の存在論(Searle 1995)。
Dodd, J. (2007). Works of Music: An Essay in Ontology. Oxford: Oxford University Press.
Ingarden, R. (1962). Untersuchungen zur Ontologie der Kunst: Musik Werk . Bild . Archtektur . Film. Tubingen: Niemeyer.
Reicher, M. E. (1998). “Works and Realizations.” in N. Guarino (ed.) Formal Ontology in Information Systems. Proceedings of the First International Conference (FOIS ’98), June 6-8, Treno, Italy, 121-132.
Searle, J. (1995). The Construction of Social Reality. New York: Free Press.
Thomasson, A. L. (1999). Fiction and Metaphysics. Cambridge: Cambridge University Press.
Wolterstorff, N. (1980). Works and Worlds of Art. Oxford: Oxford University Press.
みなさま お暑いですか?
などと間抜けなことを書いている私は、いま八戸に
いるのですね。さすがに天気のよい日は摂氏30度近く
になりますが、朝晩は20度程度で、過ごしやすい気候
です。名古屋では連日猛暑日のようで、こうなると炎
熱地獄に閉じ込めてきたかわいい子どもたちが心配で
す。子どもたち、というのは、ひょんなことでこの夏
から飼うことになったペットです。大学関係者に最も
適したペットなんですが、いったい何でしょう。そう
ですね、アカハライモリちゃんですね。もうがわゆく
てがわゆくて、毎日アカハラ三昧の私です。これが
きっかけで、名古屋地域でも動物倫理が始まってしま
うかもしれません。
というわけで、恒例の名古屋哲学フォーラムのお知
らせです。今回のテーマは、科学哲学の永遠のエニグ
マ、科学的実在論です。これもまた、知らぬ間にどん
どん進んでしまう領域でして、奇跡論法だ悲観的帰納
法だと言っていた牧歌的時代はとうに終わり、構造実
在論のあれこれの変種だとか、チャクラヴァーティの
半実在論だとか、「え、それ何すか」とか言っている
場合じゃないのよ。古典的実在論、反実在論、対象実
在論、半実在論、疑似実在論、松実在論、竹実在論、
梅実在論、並実在論、限定20食スペシャル実在論等々
が入り乱れて、もう、とんでもないことになっており
ます。この際、最新の議論をフォローして、秋からの
蘊蓄傾けライフを思う存分エンジョイしましょう。
今回の提題者は、もちろん科学的実在論をテーマに
研究を進めている、新進気鋭の若手のみなさんです。
終了後はまたまた例によって大学付近で名古屋風延長
戦を予定しています。エチルアルコール分子は実在す
るかを議論しながら、現象論的にはがんがん酔っぱら
おうではありませんか!! お待ちしております。
日時 9月11日(土)午後1:30-5:30
場所 南山大学L棟9階会議室
テーマ 「科学的実在論の現在」
提題者 森田邦久氏(早稲田大学)野内玲氏(名古屋 大学)大西勇喜謙氏(京都大学)
「量子力学と実在」
森田邦久
量子力学の一般的な解釈では,観測まで物理量は決
まった値をとらないとされる.つまり,一般的な解釈
では,物理量が実在しないのである.だが,このよう
な解釈に反対する論者もいて,かれらは,量子力学に
は明示的に現れていないわれわれが知らない「隠れた
変数」と呼ばれるものがあるとする(これを「隠れた
変数理論」という)ことが多い.
本講演では,量子力学における実在を論じる際,よ
く用いられるEPRの思考実験について簡単に解説
し,さらにベルの不等式などの隠れた変数理論を否定
する試み(NO-GO定理),およびそれを避ける実在論的
解釈の試みのいくつかを紹介する.
いまのところ,紹介する予定の実在論的解釈は,
ボームの因果律解釈(隠れた変数理論の一種)とベル
による文脈依存性を考えることにより部分的に実在を
救う解釈である.間に合えば,講演者の独自の見解も
示したいが・・・それはあまり期待しないでくださ
い.
「地球惑星科学の事例に基づいた観察可能性概念の分析」
野内玲
科学的実在論の論争では、物理学が扱うミクロな諸 対象・現象が事例として取り上げられることが多い。 それは科学的反実在論(とくにファン・フラーセンの 構成的経験主義)が、人間に観察可能か否かを理論的 対象の実在性の基準にしているからである。ここで用 いられる第一の基準は視覚であり、理論的対象は空間 的なサイズに基づいて観察不可能だとされる。 この 観察という概念が曖昧な述語であることは反実在論者 も認めるところであり、観察可能か否かは程度問題と して理解されている(科学的実在論者は明確な基準が ないからマクロ・ミクロどちらに対しても同様の認識 的態度をとろうとし、科学的反実在論者は明確な線引 きは無くとも顕著な例が確かにあることから観察不可 能な対象を認めない)。 しかしながら科学が扱う対 象はミクロなものばかりではない。空間的にはマクロ であっても、観察不可能な対象はたくさんある。ここ で重要なのは、観察可能性とは相対的もしくは関係的 な概念だということだ。われわれ(もしくは何らかの 検出器)と観察対象の間に何らかの制約があるため に、観察は不可能となる。 本発表では、そうした制 約を地球惑星科学の事例に基づいて探っていく。地球 惑星科学のような歴史的科学に関して科学的実在論の 論争はあまり論じられていない。数少ない先行研究と して、本発表ではTurner, D (2007) Making Prehistory: Historical Science and the Scientific Realism Debateを参考にする。しかし Turnerのように実在論論争全般を論じるのではなく、そ の下準備として、観察可能性について考察する予定で ある。
大西勇喜謙
科学的実在論論争とは,電子やクォーク,ミトコン
ドリアといった,科学理論において措定されている
(あるいは科学内部で存在が確証されている)観察不
可能な対象の実在をめぐる論争である.こうした問題
は,ごく大まかには,1)観察可能/不可能の区別の
問題,2)特定の理論における(実在論をとるうえで
の)概念的問題,3)観察可能な事象から観察不可能
な事象への推論の正当性の問題,の3つの問題に分類
できよう.本発表では,科学的実在論論争の中でも,
特に3)の問題を扱いたい.
ここでは,科学内部で用いられているとされる「最
善の説明への推論」(inference to the best explanation;以下
IBE)という推論規則の正当性が問題となってきた.IBE
のメタ的正当化としては奇跡論法が有名だが,こうし
た議論が反実在論側に対する説得力を欠いていること
は,Fineがすでに80年代に指摘しているとおりである.
一方で,現在の代表的反実在論者であるvan Fraassenの行
うIBE批判もまた,決定不全の信憑性や背景理論の真理
性について実在論側の認めない前提を用いており,実
在論側に対する説得力を欠いていることがPsillosによ
り指摘されている.
こうした事情もあり,近年の実在論論争では,相手側
の論駁というよりも,自身の立場の擁護に精力が注が
れてきたように思われる.一方には悲観的帰納法の回
避策をめぐる実在論内部の論争があり,また他方
で,van Fraassenは,信念の合理性に関する近年の研究に
おいて,実在論的信念・反実在論的信念の双方を合理
的とし,その選択を個人の価値観に帰着させるという
和解案を提出している.こうした状況は,IBEという,
実在論‐反実在論間の根本的対立点をめぐる議論の停
滞状況を示唆しているものと思われる.
本発表では,このような実在論論争の現状を踏まえた
うえで,推論規則の正当性や信念の合理性といった従
来の問題意識とは異なる,「知識主張としての正当
性」という新たな観点から,科学的実在論論争へアプ
ローチすることを提案する.
皆様
今年もまた下記のように名古屋哲学フォーラムを開催いたしますので、お知らせい たします。 今回はテーマとして脳神経科学の哲学・倫理学を取りあげることにしました。ちま たでは脳ブームと呼んでよいような状況が出現しています。「脳トレ」、「脳にい いことだけしなさい」、「3歳児神話」等々。これらは、一見すると科学的に見え ますが、どこまで信用できるのでしょうか。今回は、その方面で精力的に研究して いる気鋭の若手を招いて、脳神経科学のかかえる哲学的、倫理学的問題についてお 話をしていただいて、バトルを展開することにしました。興味のある方は、是非ご 参集ください。多数の方々のご参加をお待ち申しております。
日時 9月5日(土)午後1:30より5:30(予定)まで
場所 南山大学L棟9階会議室
テーマ 「脳神経科学の哲学」
提題者 井上研氏(名古屋大)、日笠晴香氏(東北大)、林芳紀(東京大)
「『脳機能画像の認識論』へ向けて」
井上研
現在、脳画像化技術を用いた認知研究は、認知や記憶といった比較的基本的な認知活動から、恋愛感情、妬み、道徳的判断、偏見、自由意志といった相当に複雑で曖昧だと思われる心的活動にまで、その研究領域を広げてきている。
例えば、次のような研究がある。妬みを引き起こすようなシナリオを読んだあとの脳活動をfMRIで測定し、妬みを強く感じた被験者ほど、前部帯状回の活動が高いという相関関係が観察された。それゆえ妬みの感情には前部帯状回と呼ばれる葛藤や身体的な痛みを処理する脳内部位が関連していることがわかる。身体の痛みに関係する前部帯状回が心の痛みである妬みにも関与していることは興味深い(注)、といった具合である。
しかし、このような研究で得られた脳画像は、実際のところ何を示しているのだろうか。確かに、実験結果の報告においては「実験の主題である心的活動と○○という脳領域の活動との間に相関がみられる」ということが述べられるのだが、そこで得られた脳画像の意味は必ずしも明確ではない。
哲学においては、「われわれは世界についてそもそも何を知りうるのか、知りうるとしたらどのような範囲でどの程度のことを知りうるのか」という問いを探求する認識論と呼ばれる問題領域がある。発表者はそれになぞらえて、測定装置の性能による限界、測定の原理、方法論的な前提やそれらへの批判を考慮し、「脳機能画像からは、何について、どれくらいのことが実際に分かると言えるのか」、「脳機能画像からはどのような結論を実際に引き出しうるのか」を体系的に考える「脳機能画像の認識論」を構築することを試みる。
本発表ではその最初の段階として、fMRIの測定原理から見て、あの色つきの画像はいったいどういう種類のデータであるのか、を明らかにしたい。
(注)Takahashi, et al.(2009),"When Your Gain Is My Pain and Your Pain Is My Gain : Neural Correlates of Envy and Schadenfreude", Science 323, pp. 937-939.および、独立行政法人 放射線医学総合研究所HPのプレス発表のページ http://www.nirs.go.jp/news/press/2008/02_12.shtml#01
日笠晴香
従来の生命倫理学における意思決定の枠組みでは、認知症患者は自律能力を欠くとみなされる。しかし、医療倫理学者のヤヴォフスカは、脳神経科学的知見に基づいて、認知症患者は自律能力を有しており、それゆえそれを尊重すべきであると主張する。本発表では、このように認知症患者の自律を捉え直すことによって従来の意思決定の枠組みがどう変更されるのか、認知症患者の意思決定において何が尊重されなければならないのかを考察する。
「『穏健派ラディカル』を超えて―近年のエンハンスメント論争の傾向とその不毛さ」
林 芳紀
健常者の能力増強を目的とした生物医科学技術利用、いわゆる「エンハンスメント」の是非をめぐる近年の生命倫理学の論争は、保守派対ラディカルという当初の二極化された対立図式を超えて、「穏健派ラディカル」とでも呼ぶべき立場への収斂を示しつつある。本発表では、様々なエンハンスメントの中でも今現在徐々に普及しつつあり、またそれだけに喫緊の対応が求められている「認知エンハンスメント」(cognitive enhancement)に関する議論を素材として、穏健派ラディカルとはどのような立場であり、なぜ現在の生命倫理学者が穏健派ラディカルの立場へと駆り立てられてしまうのかを明らかにする。そのうえで、穏健派ラディカルが見失っているものとは何か、エンハンスメントの是非をめぐる議論の中で生命倫理学者が考察すべき問題とは何かについて、若干の検討を試みる。
うっとうしい季節となりましたが、みなさんお元気でしょうか。
今年もまた名古屋哲学フォーラムを開催する予定ですので、お知らせいたします。 今年はテーマとして形而上学を取りあげることにしました。「えっ、形而上学? 何でいまどき形而上学を?」と思うあなたは時代に取り残されているかも!もは や、論理実証主義の時代ではありません。形而上学は今やもっともかっこいいト レンドの一つになってます。というわけで、今回はその方面で精力的に研究して いる気鋭の若手を招いて、フロンティアのお話をしていただくことにしました。 現代、どんな形而上学的問題がどのような仕方で議論されているのかに興味のあ る方はもちろんのこと、「形而上学などナンセンス」とお思いの方はそれを論破 すべく、是非ご参集ください。多数の方々のご参加をお待ち申しております。
日時 9月6日(土)午後(詳細は追ってお知らせします)
場所 南山大学L棟9階会議室
テーマ 「現代形而上学の動向:エキゾチックな存在論の可能性」(仮題)
提題者 小山虎氏(慶應大)、斎藤暢人氏(早稲田大)、鈴木生郎氏(慶應大)
ご案内その1
蒸し暑い季節となりましたが、みなさんお元気でしょうか。
恒例の名古屋哲学フォーラムのご案内をさしあげます。 今年のテーマはズバリ、「科学哲学の現在(いま)」です。心の哲学や論理学の 哲学もいいけれど、最近科学哲学の本流はどうなってるの?とお思いの方々には 待望のテーマだと思います。とはいえ、科学哲学といっても広いので、今回はそ の中でも特に生きのいい?生物学の哲学を選び、気鋭の若手を招いて、フロンテ ィアのお話をしていただくことにしました。多数の方々のご参加をお待ち申して おります。(今回はあいにく土曜日が都合がつかず、日曜開催となりました。お 間違えないよう御願いします。)
ご案内その2
立秋をとうに過ぎたのに、風の音にぞおどろかれぬるなんてことちーともありゃせ
んがや、という猛暑が続いております。みなさんさぞかしぐったりとお過ごしのこと
と思います。
私(戸田山)も、お盆休みはどこに出かけることもなく、ひねもす自宅でごろごろとしており
ました。こういうとき頼りになるのはやっぱりレンタルビデオ屋さんですね。映画を
見て涼しくなろう、ということでしたら、南極ものはどうでしょう。と言っても、樺
太犬タロ・ジロの出てくる『南極物語』、こいつはいけません。うっかりして、ココ
ロが暖まっちゃったりしたらタイヘンです。涼をとるのに最適の南極ものといえば、
ズバリJohn Carpenter監督の代表作『遊星からの物体X』でしょう。化け物は出てく
るわ、野郎しか出てこないわ、主人公は凍え死にするわ、越冬隊員同士「こいつは物
体Xが化けているのでは」と疑心暗鬼に駆られて自滅していくわで、ココロが冷え冷
えとする要素満載です。まだごらんになっていない方は、さあ、ゲオに走れ! カー
ト・ラッセルが君を待っている!
で、映画と言えば、予告編。予告編と言えば、ということで、これは恒例の名古屋
哲学フォーラム予告編メールなのでした。(いやいや、やっとつながりました。一時
はどうなることかと…)今回のテーマは、生物学の哲学です。最近、若手を中心にひ
そかに生物学の哲学が流行っているって知っていました? え、知らなかった。そう
なの? というみなさん。ここいらで、最新情報を仕入れておかないとあとがコワイ
ですよ。というわけで、気鋭の若手をお招きして、生物学の哲学の最前線についてお
話をしていただくことにしました。
今回はあいにく土曜日が都合がつかず、日曜開催となりました。お間違えなきよう
御願いします。よろしかったら、土曜日夜から名古屋入りして、夏の名物「ひつまぶ
し」などいかがでしょう。多数の方々のご参加をお待ちしております。
名古屋哲学フォーラム2007秋
日時 2007年9月16日(日)14時開始
場所 南山大学L棟9階会議室
テーマ: 科学哲学の現在(いま) : 生物学の哲学を中心に
提題者 田中泉吏氏(京大)「選択のレベルは存在するか?」
森元良太氏(慶大)「遺伝的浮動は非決定論的な現象か」(仮題)
「選択のレベルは存在するか?」
田中 泉吏
選択のレベル論争は、生物学の哲学における中心的な争点の一つである。この論争
は利他行動の説明問題を中心に、遺伝子選択主義による集団選択説批判から始まっ
た。その後、集団選択説の復権と相俟って、複数レベル選択説が力を持ち始め、今度
は遺伝子選択主義が批判される側になっていった。これに対する遺伝子選択主義者の
応答は、モデル多元論への移行であった。現在、複数レベル選択説とモデル多元論の
対立を中心としたこの論争は、どのような様相を呈しているのだろうか。本発表では
以下の論点を中心に、論争の現状を分析したい。
複数レベル選択説とモデル多元論の論争は、両者による説明が共に(一応は)成立
する場面で行われることが多い(利他行動の進化など)。しかし、複数レベル選択説
の立場に立つオカシャは、モデル多元論の主張が成立するのは「集団」の適応度が
「構成個体」の適応度に還元できる場合だけであると批判している。しかし、自然界
全体を見渡してみたときに、そのような還元が不可能な場合、言い換えれば両者の適
応度がはっきりと区別できるケースはどのくらい存在しているのだろうか。複数レベ
ル選択説とその他の立場は、この点に関して大きな見解の相違があるように思われ
る。またこの論点は、生物体や生物階層性をどのように理解すべきなのかという問題
と関係している。さらに、この論争は自然選択そのものをどのように捉えるべきかと
いう問題と大きな関連がある。例えば、複数レベル選択説では選択は(異なるレベル
で)進化を引き起こす諸力の一つであると考えるのに対して、選択は遺伝形質の適応
度差異の結果に過ぎないと考える立場も存在する。こうした選択に対する異なる見方
は、当然のことながら選択のレベルについての考え方の違いをもたらす。本発表では
以上の分析を通じて、この論争が進化論の主要概念をめぐる問題といかに深く結びつ
いているのかということを明らかにしたい。
「遺伝的浮動は非決定論的か?」
森元良太
自然科学は私たちの世界観に大きな影響を与えてきた。進化論はその一例である。
ダーウィン以来、生物進化の研究は飛躍的な進歩を遂げてきた。それにより、私たち
の生命に対する理解は大きく変化した。生物が共通の祖先に由来し、自然選択によっ
て進化してきたことや、遺伝の基本単位がDNA分子であることなどは、現代進化論が
もたらした、生命への新たな理解である。また、ダーウィンは生物が自然選択により
進化することを示したが、その後の進化研究の成果により、遺伝的浮動によっても進
化することが分かってきた。自然の生物集団は繁殖時に多くの配偶子をつくるが、そ
の中で次世代に寄与するのは少数である。そのため、次世代の集団における遺伝子頻
度は、もととなる現世代の遺伝子頻度から変化する。このとき、次世代の配偶子は非
常に多くの現世代の配偶子からランダムに選ばれるとされている。この過程が遺伝的
浮動である。遺伝的浮動は遺伝子の頻度変化を変化させるので、進化要因の一つと考
えられている。
遺伝的浮動を巡っては、これまでに生物学者の間で激しい論争が繰り広げられてき
た。そこでは主に、遺伝的浮動が実際の生物集団に及ぼす効果の大きさについて議論
されてきた。現在では、少なくともDNA分子レベルにおける浮動の効果が一般的に認
められている。このことは何を意味するのだろうか。何人かの哲学者は、遺伝的浮動
はランダムな抽出であるから、非決定論的な過程であると主張する。別の哲学者たち
は、遺伝的浮動の存在を否定し、決定論的世界観を保持しようとする。この対立は現
在も続いており、未だ解決には至っていない。遺伝的浮動の過程を正確に理解するこ
とは、私たちの世界観を形成する上で重要な課題である。そこで本発表では、遺伝的
浮動が非決定論的であるか否かについて考察をおこなう。また、この考察を通して、
基礎物理理論とは異なる進化論の特徴も明らかにしたい。
蒸し暑い季節となりましたが、みなさんお元気でしょうか。
今年の名古屋哲学フォーラムは、再び暑い名古屋で開催されることになりました。今回のテーマはメタ倫理学です。生命倫理や環境倫理や工学倫理、はたまた、脳科学倫理など、応用倫理が華やかな昨今ですが、メタ倫理はもう時代遅れなのか?そんな声に応えて(?)、メタ倫理の最前線で今何が問題となっているのか、気鋭の若手を招いてバトルを展開して貰うことにしました。多数の方々のご参加をお待ち申しております。
ご案内その2
蒸し暑い季節となましたが、みなさんお元気でしょうか。
味覚がまだ子どものせいか、この年になってまだオムライスが好きな私(戸田山)です。いつ もは自分でつくって食べているのですが、先日、ふらりと「オムライス専門店」な る店に入ってみました。そうしたらビックリ。海老クリームソースがけだの、デミグ ラスソースがけ、カレーソースがけ、はたまた中華あんかけ風だの。ひとすじのケ チャップがかかった、昔懐かし普通のオムライスはないのか、ヤイッ!(と、いきな り東海林さだお風になる)。
倫理学も同じですね。エコ倫理、バイオ倫理、インフォ倫理、エンジニア倫理、テ クノ倫理、リサーチ倫理、ナノテク倫理にニューロ倫理…。古いヤツだとお思いで しょうが…。右を向いても左を見ても、倫理と応用の絡み合い。どこに男の夢がある (べつに提題者のお名前に触発されたわけではありません)。応用倫理の花盛りで す。まあ、これはこれでオイシイのではありますが…。
というわけで、そろそろトッピングのないオムライス、もとい、倫理が食べたくな ってきたよう、とお嘆きの貴兄にお送りする名古屋哲学フォーラム、今回 はメタ倫 理学がテーマです。行為の動機と理由、表出主義vs.道徳的実在論、これですよ、こ れ、こういう倫理ばなしに飢えていたんよ、というあなた、フルーツあんみつより みつ豆、宇治金時白玉より「氷すい」のお好きなあなた、ぜひともお集まりくださ い。残暑を吹き飛ばす、スッキリ・サワヤカな議論をいたしませう!
名古屋哲学フォーラム2006秋
日時 2006年9月16日(土)午後2時30分~5時30分
場所 南山大学L棟9階会議室
テーマ: メタ倫理学の最前線
提題者 鶴田尚美(京大)「ウィリアムズの内的解釈と規範的理由」
田村圭一(北大)「倫理学における表出主義とその意味するもの」
==========以下はレジュメです====================
「ウィリアムズの内的解釈と規範的理由」 鶴田尚美(立命館大学非常勤講師)
バーナード・ウィリアムズは、行為の理由に関する一連の著作の中で「準ヒューム 主義的モデル」を用いた理由の内的解釈を主張する。内的解釈によれば、 「私には 行為 φをする理由がある」という理由言明は、「私の主観的動機群(subjective motivational set)から当の理由まで達する健全な熟慮の道筋がある場合にのみ、私 にはφをする理由がある」という必要条件を述べたものとして解釈される。このモデ ルは、行為の目的を定め動機づける行為者の欲求と、その目的を達成するための手段 選択に携わる信念の二つの要素から成る。 ウィリアムズのモデルの場合、主観的動機群には欲求だけでなく、評価の傾向性、 情緒的反応、計画、コミットメントなども含まれている。さらに、これら の動機群 は所与として想定されているわけではなく、そこに含まれる動機そのものが変化する こともありうると想定されている。つまり、行為者が熟慮のプロ セスの中で、それ までもっていた動機を放棄したり、新たな動機を獲得したりすることもありうる。 しかし、熟慮を経てもまったく動機を見出せない理由言明(外的理由言明)の場合、 行為者にそれをなすべき理由はない。内的解釈は、理由と動機の関係を うまく説明 できるという利点をもつが、同時に行為者の主観的動機に取り込めない理由言明は偽 となってしまうという難点を抱えている。本発表では、規範的 理由言明においてこ のモデルがどこまで有効なのかを考えたい。
「倫理学における表出主義とその意味するもの」 田村圭一(北海道大学)
メタ倫理学の歴史を振り返ってみると、情緒主義、指令主義、投射説、規範表出主 義と続く非実在論の系譜を見て取ることができる。以上の系譜は、乱暴で はあるも のの、「表出主義」と一括される。倫理学における表出主義とは、「たとえば、『子 供の虐待は不正である』と主張するとき、私たちは『子供の虐待 は不正である』と いう事実を記述していると言うより、むしろ、子供の虐待に関する態度を表出してい る」という見解である。表出主義者は存在論において、 道徳的な事実の存在にコミ ットすることなく、また、意味論において、道徳的な文の機能が記述・報告・表象で はなく、表出であると主張する。
本発表において、発表者は1.道徳的な実践の心への依存、2.道徳的な真理、3.道徳 的な実践の論理に関する表出主義者の議論を検討しながら、実在論 者の意図するよ うな、純粋なメタレヴェルから、実質的に道徳的な主張に何らコミットすることな く、営まれるものとしてのメタ倫理学が、表出主義において 変質するということを 論ずる。表出主義者にとってのメタ倫理学は、実質的に道徳的である一階の主張と同 じレヴェルに回帰していくものであると考えられ る。以上のように、表出主義にお けるメタレヴェルと対象レヴェルの両断の崩壊をあきらかにするということが、本発 表の目的である。最後に、メタ倫理学の 歴史を振り返りながら、表出主義が孤立し ている主義主張ではなく、特に、非自然主義と接続され得るという見込みに触れ、メ タ倫理学における統一理論、あ るいは、エキュメニズム(ecumenism)の可能性を叙 することで、結語とする予定である。
暑くて忙しいですね。みなさんお元気のことと思います。今回の名古屋哲学フォーラムは、なぜか京都で開催です。京都なのに、なぜ名古屋哲学フォーラム? ここで明らかになる衝撃の事実は、「名古屋」は固有名ではなく形容詞だったということであります。つまり、京都で行われる、なんとも「名古屋な」哲学フォーラム、というわけです。ですから、これからもあなたの街に、あなたの村に、全国津々浦々に名古屋哲学フォーラムが出没するかもしれません。
…というわけで、名古屋ちっく哲学ファンの皆様。今回のお題はいよいよ、あの難解な、そして難解であるがゆえになんだか有り難く、多くの優秀な若手をあり地獄のように引き寄せる魔性の哲学者、マクダウェルの登場です。高名さゆえに手にとって挑戦するも挫折を繰り返してきたみなさま(って私だけかも)、この際、しっかりお勉強して、「ああ、マックね」(関西では「マクダね」)と言えるように頑張りましょう。
いにしえの都、日本人の心のふるさと京都を舞台に繰り広げられる、雅とも粋とも無縁の、名古屋ちっく哲学バトル。哲学における、ガメラ対イリス、 京都タワー、はたまたポンデザールか? 多数のご参加をお待ち申しておりますどすえ。
名古屋哲学フォーラム in 京都
日時 2005年 9月17日(土)午後2時~5時
場所 京大会館(075-751-8311)
〒606-8305 京都市左京区吉田河原町15-9
● 京都駅より市バスD2のりば(206)
● 四条京阪より(南座向い)(201)(31)※いずれも京大正門前下車
● 京阪電車鴨東線丸太町駅下車徒歩7分テーマ マクダウエルの哲学
提題者 村井忠康氏(慶應大学)
河田健太郎氏(東京都立大学)
==========以下はレジュメです====================
「所与の神話に二度抗う――マクダウェル・経験・知識――」 村井忠康(慶應義塾大学博士課程)
マクダウェル(1994,1996)によれば、経験的知識はいかにして可能かという認識論 的問題は、思考はいかにして可能かという、より深い問題の未成熟な表現である。所与の神話の一形態としての伝統的経験主義が、知識の究極的正当化を前概念的な経験所与に求めた動機が正しく診断されるなら、それは、思考に対する世界からの外的制約を確保することによって、思考の客観的指向 (objective purport)という考えそのものを保持したいという動機として取 り出されるのである。最近のマクダウェルが好んで使う表現でいえば、それは 「超越論的」動機である。しかし他方で彼には、認識論的問題に焦点を絞った一連の論考 (McDowell1983,1992,1993)もまたある。これらの論考で所与の神話は、知識の基礎の確保という企図から心の内閉的捉え方(デカルト的主観主義)に至るものとして扱われている。こうし て、マクダウェルはこの神話に二度抗っていると言うことができる。だがこれは、認識論的問題は未成熟であるという彼自身の見解と矛盾しないだろうか。この疑問を出発点として本 発表では、「未成熟」という表現が示唆する彼の考え、すなわち認識論的問題に対する超越論的問題の優位という考えに揺さぶりをかけることを試みたい。そしてこの試みを通じて、世界に開かれてあること(openness to the world)としての経験、またそうした経験による信念の正当化といった、今や広く知られるところとなった彼の考え方の射程と限界を明らかにしてみたい。
「第二の自然は合理性の岸辺まで航海しうるか」 河田健太郎(東京都立大学博士課程)
先日スチュアート・ハンプシャーのある著作を読んでいて、私は改めて自分の知識のなさに気づかされた。その著作の序文には「自然から第二の自然へ」という題名がつけられており、それもあって私はこの序文を読もうと思ったのであるが、読んでみるとそこで使用されている「第二の自然」は、ヒュームからの影響を受けたものだったのである。私はヒュームがそのようなことを述べているとは知らなかった。たしかにヒュームは「習慣」を重視する哲学者であって、「習慣は第二の自然」ということわざから類推すれば、そうした想定ができないこともないのであるが、どちらかといえばマクダウェルと異なる位置にあるヒュームが、いくらなんでも「第二の自然」とまでは言わないのではないかと勝手に考えていたのである。しかしハンプシャーによれば、どうやらそういうことになっているらしい。おそらくヒュームは(ハンプシャーも?)マクダウェルとは異なる観点で第二の自然を考えていると思われる(思いたい?) が、問題はそうした曖昧さを第二の自然という概念がそもそも含んでいるという点であり、にもかかわらずマクダウェル自身あまりこの概念を明確にしていないという点であろう。今回の発表では、いくつかのテキストからマクダウェルの第二の自然の概念を再構成し、この概念の有効性について検討したい。
名古屋から暑中お見舞い申し上げます。今回の名古屋哲学フォーラムは、地下鉄名
古屋大学駅開業記念、というわけではないのですが、会場をいつもの南山大学から名
古屋大学に変えて行います。地下鉄開通によって、名古屋駅から名大キャンパスの中
まで地下だけを通って来ることができるようになりました。地下の大好きな名古屋人
にとっては最高に魅力的なキャンパスになりつつあります。いっそのこと、大学も全
部地下に埋めてしまえばいいかもしれません。『バイオハザード』みたいですが。
というわけで、クマゼミの鳴き声の中、ギラギラ太陽に炙られつつ会場に向かうと
いう、名古屋哲学フォーラムならではの季節の風物詩が失われていくことは寂しいと
お嘆きの方もいらっしゃるかもしれませんが、その分、討議は熱く!やりましょう。
例によって例のごとく、懇親会は乱闘歓迎のバトルロイヤルに突入いたします。今
回は、「ハマユウ」以外の会場を考えておりますので、しばらくぶりの方も是非!さ
らにさらに尿酸値を高めましょう!
名古屋哲学フォーラム2004以下はレジメです。
「確率の哲学への招待:ベイズ主義ってどうよ」
日時2004年 9月11日(土)1:30-5:00(1:00開場)
場所 名古屋大学情報文化学部第一会議室
発表者 鈴木聡(駒澤大学文学部非常勤講師)
横尾剛(慶應義塾大学)
高須 大 (慶應義塾大学)
I 「通時的ダッチブック論証による BC 原理の正当化の試み」 横尾 剛 (慶應義塾大学),高須 大 (慶應義塾大学)
いわゆるベイズ主義によれば,信念の合理的変化は,条件付確率を用いた条件付け (Bayesian conditionalisation,以下,BC 原理と略) によって表現することができ ると主張される.この BC 原理は,ベイズ主義においては,「科学的推論」の解明に 不可欠なものとされている.そして,この主張を正当化する様々な試みがなされてき た.我々は,その中でも,通時的ダッチブック論証 (以下,D-DBA と略) と呼ばれる 試みを取り上げ,その正当化の成否を検討する.
ベイズ主義では,確率は全体として整合的であるような公平な賭け指数であるとい う解釈がなされ,その解釈は,de Finetti や Ramsey に始まる共時的ダッチブック 論証 (以下,S-DBA と略) に基づいている.しかし,BC 原理の要請は,確率論の定 理でもないし,S-DBA からの帰結でもない.我々の動機は,S-DBA を適切に通時的に 拡張することによって,BC 原理の使用を正当化する論証 (つまり,D-DBA) を構成す ることである.
それを行うため,まず,Teller (1973) によって定式化され,その後も多くの D- DBA 論者によって依拠された Lewis-Teller 型と称される D-DBA を厳密に再定式化 する.その結果,そのままの形では,Lewis-Teller 型の D-DBA は BC 原理の正当化 に成功していないことを指摘する.その上で,特に Christensen (1991) などによっ て指摘された問題点を回避しているような改良版のD-DBA の構成を試みる.
(参考文献)
Teller, P. (1973), "Conditionalisation and Observation", Synthese vol.26, pp.218-58.
Christensen, D. (1991), "Clever Bookies and Coherent Beliefs", The Philosophical Review vol.100, pp.229-247.
II 「確率の主観説の測定理論による正当化の試み」
鈴木 聡(駒澤大学文学部非常勤講師)
確率の主観説を正当化すると考えられるもののうちで最も代表的なものはラムジー やデ・フィネッティに由来するダッチ・ブック定理である。しかし、ダッチ・ブック 定理の証明が非常に例外的なことがらを暗黙のうちに前提してしまうという理由で、 ダッチ・ブック定理が確率の主観説を正当化するとはいえないことを私は別の論文で 示した。本発表では、ダッチ・ブック定理とは異なる仕方で確率の主観説の正当化を 試みる。選好関係についての合理的な10個の条件および選好空間についての例外的 でない5個の条件、合計15個の条件 --- 公理系S --- を前提し、それらの条件を 充たす効用関数を構成し、その効用関数を用いて信念の度合を定義し、その信念の度 合が確率計算の公理を充たすことを証明するという仕方で私は確率の主観説の正当化 を試みる。このとき私は、確率の主観説を正当化するためにラムジーが試みた方法を 叩き台にした。このラムジーの方法は、ヘルムホルツやヘルダーやラッセルに始まり、 クランツやスッピスやルースへと受け継がれる測定理論(measurement theory)の系譜 に属する。ラムジーの公理系は、彼の意図に反して、信念の度合が確率計算の公理を 充たすことを証明できるほど豊饒なものではない。一方、私が構築した公理系Sは、 ラムジーのスピリットを生かしつつ、彼の公理系に修正を加えたものであり、信念の 度合が確率計算の公理を充たすことをそこから証明することができるものである。
梅雨のうっとおしい空模様が続いておりますが、みなさんお元気でお過ごしのこと
と思います。梅雨と言えば名大祭。毎年、梅雨のはしりの危なげな天候をものともせ
ず開催されております。ところでこのたび、私(戸田山)、名大祭で映画研究会の自
主制作映画に出てしまったのです。役どころは、人類を豚に変えようとする悪の科学
者(じつはこれが伊勢田氏)から人類を守るべく立ち上がる正義の哲学者であります。
真・善・美を兼ね備えた、まさに哲学者ならではのはまり役だったと、とりわけ小学
生に大好評でした。というわけで、今回の名古屋哲学フォーラムのテーマは、「真理
論の現在」です。
…う~ん、ちょっと苦しいつなぎ方でしたね。真理の理論も、ちょっと勉強をさぼ
っているあいだに、不動点だ、デフレ理論だ、改訂理論だと、どんどん難しくなっち
ゃってタイヘン、とお嘆きのみなさん。真理の理論をご専門にしておられる3人の発
表者から、この際とことん勉強しちゃいましょう。ふるってご参加下さい。
例によって、懇親会は乱闘歓迎のバトルロイヤルに突入いたします。みなさん、名
古屋の暑い夏はビールがおいしいですよ。どんどん尿酸値を高めましょう!
日程等の予定は下記のようになっています。期日が迫りましたら、レジュメ付きの
ご案内を差し上げますが、とりあえずお近くにご関心をおもちのお知り合いがいらし
たら、ぜひ転送をお願いします。
名古屋哲学フォーラム2003
「真理論のウソとマコト:現代真理論の動向」
日時 2003年9月6日(土)2:00-5:00
場所:南山大学 (名古屋市昭和区山里町)L棟9階会議室発表者
青山 広(東海学園大学)
津留竜馬(東京都立大学)
金田明子(京都大学)
9月7日のフォーラムの余韻がまだ残っている時期で恐縮ですが、またまた名古屋哲
学フォーラムextraのお知らせです。今回は、本年1月に創文社より『理由と空間の
現象学:表象的志向性批判』を上梓された、東京大学の門脇俊介さんをお招きして、
本書の合評会を行います。現象学のホープ門脇氏の分析哲学への「宗旨がえ」として、
一部の世界を震撼させた?重要著作を表から裏から検討しようという目論見です。み
なさん、ご一読の上、ふるってご参加下さい。
日程等の予定、各発表者のレジュメは下記のようになっています。出張旅費等の関
係でまじめバージョンの招待状が必要な方は、電子メールで大丈夫かプリントアウト
したものが必要かを明記の上、戸田山までご連絡下さい。
名古屋哲学フォーラムextra
『理由と空間の現象学:表象的志向性批判』合評会
日時 2002年 9月28日(土)2:00-5:00
場所:南山大学 (名古屋市昭和区山里町)L棟9階会議室いけにえ 門脇 俊介(東京大学)
ぐつぐつに煮えたぎったみそ煮込みうどんのおいしい季節となりました(ウソ)。
でも、名古屋の人はほんとうにみそ煮込みうどんが好きとみえます。私(戸田山)は
お盆の間名古屋にいたのですが、この間名古屋に帰省してきた人は、うどんやさんに
行きたくなるようで、近所の「山本屋本店」には夜になると車の長蛇の列ができていました。
そこまでして食べたいか、キミタチ!
お話かわって、今回の名古屋哲学フォーラムは、「チャルマーズってどうよ?」を
テーマに、新しい意識の科学のスポークスマンとなった観のある、David Chalmersの
The Conscious Mindを俎上に載せ、心の哲学をご専門にしておられる3人の発表者に
とことん論じてもらいます。新しい意識の科学のバイブルなのか、はたまたトンデモ
系か。いま明らかになるチャルマーズ哲学の全貌!例によって、後半戦と懇親会は乱
闘歓迎のバトルロイヤルに突入いたします。みなさん、ふるってご参加下さい。
日程等の予定、各発表者のレジュメは下記のようになっています。出張旅費等の関
係でまじめバージョンの招待状が必要な方は、電子メールで大丈夫かプリントアウト
したものが必要かを明記の上、戸田山までご連絡下さい。
名古屋哲学フォーラム2002「意識する心をめぐって:David Chalmers, The Conscious Mindの批判的検討」
日時 2002年9月7日(土)2:00-5:00
場所:南山大学 (名古屋市昭和区山里町)L棟9階会議室発表者 羽地 亮(神戸大学)
金杉武司(埼玉大学)
棚橋哲治(名古屋大学)
発表要旨
ワールドカップで世の中落ち着かない今日この頃ですがみなさんいかがお過ごしで しょうか。 私(戸田山)は、サッカーに興味がないのに、みんながワールドカップの話題で話しかけてくる ので、困っています。そういうときは、「今回はラモスは出ているの?」と言うと、 放っておいてもらえるようです。 さて、以下の要領で名古屋哲学フォーラムを開催します。今回は一ノ瀬正樹さんの 著書『原因と結果の迷宮』の合評会です。『原因と結果の迷宮』をご一読の上、著者 を交えて侃々諤々議論しましょう。みなさん、ふるってお集まりください。
日時:2002年 6月29日(土)2時から
場所:南山大学
(名古屋市昭和区山里町)L棟9階会議室
終了後は、例によって懇親会に突入します。こちらもみなさんふるってご参加くだ さい。
日時 2001年 12月1日(土)3:30-5:30(開場3:00)
場所 南山大学(名古屋市昭和区山里町18) L棟9階会議室
講演 西脇与作(慶應義塾大学)
「選択効果(selection effects)について」
日時: 2001年 9月8日(土)2:00-5:00
場所:
南山大学(名古屋市昭和区山里町18)L棟9階会議室
発表者: 野家伸也・信原幸弘・美濃正
というわけで梅雨時にはじめて開催する名古屋哲学フォーラムです。 今回は九州大学から菅豊彦さんをおまねきして、行為の哲学と倫理学 の基礎にかかわるテーマでのご講演をお願いしました。ご関心の おありの方は、ふるってご参加ください。また終了後の懇親会(6時から) にもぜひご出席下さい。
日時: 2001年 7月7日(土:七夕)3:30-5:30
場所:
南山大学(名古屋市昭和区山里町18)L棟9階会議室
講演: 菅豊彦(九州大学)
「動機論についてのヒューム主義と反ヒューム主義」