<Tal〜Chame>

3日目:Tal(1700m)からChame(2670m)へ

 7時に朝食をとり、半頃には出発した。 街道の両側は石を積み重ねただけの垣根が北の門まで続く。トール(Tal)を離れるにつれ谷はまた深くなっていく。はるか西には7000メートル級のアンナプルナの山々が連なっているはずだが、谷の左右には緑の樹林が広がるのみである。ベシサハール(BesiSahar)以来、白い山稜は見ていない。そういえば稲の実る景色もみなくなった。マルシャンディ川流域では昨日のバフンダンダ(Bahundanda)辺りがの北限だろうか。

 通り過ぎるそれぞれの集落には暮らす人々の生活があり、ピークを目指す登山とはまた違った面白さがある。かつての日本にもこんな光景があったのだろうかと思いつつも、Guest HouseやHotel、Lodgeといった看板や英語で書かれたメニューに人間のたくましさを感じずにはいられない。
 外の世界との交流のなかでいったいどれだけのものが不変でいられるのだろうか。欧米人に変わって日本人が大挙してやってくるようになれば、英語が日本語に化けるだろう。ポカラ(Pokhara)のダムサイドの一角のように。

 本当にその国の旅を楽しむのなら現地の言葉を話せるようになるべきだ。旅を重ねる度に思う。話を聞けるだけでも相手の価値観に近づくことはできる。それが会話として出来るなら、未知の世界を知るという旅の素晴らしさを深く味わえるはずだ。
 チェック・ポイントのある場所、お茶をのんで一息ついた場所、一晩とまった場所など街道を奥に進むにつれ、いくつもの集落を通過してゆく。それらの場所では大なり小なりのコミュニケーションがある。今村さんと自分の差を痛感したのは、ネパール語を話せることよりも言葉の意味や発音をまめに聞いて自分の語彙にしていく姿勢だった。現状に満足している自分が情けなかった。
 思えば自分も初めての旅のときは現地の言葉を勉強したものだ。行くと決めてから出発までは一ヶ月ほどしかなかったが、中国語会話の本を買ってきて付録のCDを聞きながら毎日本をめくった憶えがある。会話には程遠かったが、それでも覚えた数字なんかは役に立ったものだ。
 言葉と旅。単なる物見遊山で終わらせないためには言葉が不可欠だ。

 途中、チェック・ポイントでのパーミットのチェックやお茶屋での休憩をはさみつつ先へ進み、ひたすら北上していたルートも西を向くようになる。
 次の集落だ。石段があり、その上に石積みの門がある。門を見上げるとその向こう側には山々と空が見える。バガールチャップ(Bagarchap:2160m)の入り口だ。だが、門をくぐると通り過ぎてきた集落とは全く違った光景が広がった。左斜面からの大量の土砂と、所々にかつて家があった痕跡が見える。かつては石畳の街道の左右に観光客相手のお茶屋や宿、民家や商店が並び人が集っていたであろうが、2年前(95年)の雪崩の跡が生々しく残るばかりだ。

 30分ほど先をいったダナギュー?(*1)(Danague:2300m)で昼食をとる。ここは新興の集落なのか、我々が食事をしたTREKKERS HOTEL以外はみな工事中の建物ばかりだ。平らな薄い石を積み重ねていき30cmほどの厚さの壁を作る。そこに木製の窓やドア、床板などをはめこんでいく。石積みの壁はしっくいのようなものを塗り込んで表面を平面にしているようだ。窓のガラスなども街(ポカラあたり?)から運んできているらしく、新しい建物ほど欧米人受けするような作りになっている感じは否めない。
 日は出ているが、休んでいるときには風を冷たく感じる。昨日の登りでは汗だくになったものだが、秋の気配といったところだろうか。

 昼食にはチーズ・スプリング・ロールやトマト・スープ、ベジタブル・ミックスド・カレーなんかを頼んだ。定番のメニューとしては(ベジタブル)ヌードル・スープなんかがある。ヌードル・スープというとたいそうに聞こえるがなんのことはない、インスタント・ラーメンに毛の生えたようなものだ。しかし腹の調子がいまいちの時などは無難な一品といえる。
 アップル・パイは食べくらべの意味もあって食事で何度か頼んでいる。 バハドールさんとペンマさんは相変わらずダルバードのようだ。彼らは調理場かどこかで食事をとることがおおく、4人でテーブルを囲むことは意外に少ない。まあ彼らにしてみれば食事時くらいはのんびりしたいということかもしれないが。

 12時40分頃にダナギュー?(*1)(Danagyu)を出発。道中で白や黒、茶色の羊の大群と出会う。羊飼いのにーちゃんはこの辺りで草でも食べさせているようだ。
 途中、タンチョーク(Thanchawk)でお茶休憩を入れる。基本的にお茶はブラック・ティー、レモン・ティー、ミルク・ティーの三種類で、量によってコップ一杯、スモール・ポット、(ミドル・ポット)、ビッグ・ポットと別れている。もっともポットのサイズは相対的なもので、ある場所でのビッグ・ポットは他の場所ではスモール・ポットの量というぐらいの差がある。高度や寒暖による地域の違いが出るのかもしれない。
 途中、土砂崩れでルートが崩壊しているところがいくつかあった。気をつけないとマルシャンディ川に落ちる。心ともない踏み跡を人や馬が通って道にしていく。雨季になるとまた流されるのだろう。
 ここでフランス・パーティとも出会った。結構人数が多く、昨日であった荷物運びの女の子たちもいた。

 今日は長丁場だ。15時ごろコト・カパール(Koto Qupar:2600m)に着く手前ぐらいからルートの所々で雪をみかけるようになった。インナー・ヒマールに入るとともに気候も変わりつつある。
 コト・カパールの入り口にはマニ車がありティベッタン文化の影響が大きくなってきたと言える。
 チャメ(Chame:2670m)に着いたのはは16時少し前だ。泣き出しそうだった天気も我々がホテルに入るとともに雨が降り出してきた。

チャメ(Chame)の宿にて

 <部屋>で荷物を整理し、下の食堂へ降りていく。雨の降りはひどくなっており食堂は欧米人であふれている。幸いストーブの近くに座ることが出来た。
 日記をつける。今村さんは奥の炊事場の方へ入っていった。雨のせいかストーブの近くでないと寒い。明日は雨の中を歩くことになるのだろうか。

 食堂には空いたテーブルがなく、夕食は裏方の炊事場でとることになった。裸電球の下でここの女将が料理を作っている。ペンマさんも料理を手伝っているではないか。他に欧米人のガイドであろう青年が一人いる。毛糸のセーターと帽子に身を包みかまどに手をかざす様子はつい二日前には考えられない光景だ。
 木製の壁には棚板が何枚か渡してあり、その上に金属製の食器や陶器のポット、ガラスのコップなどが並べられている。板を組んだ内側を土で満たし、中で火をたけるようにしたかまどがしつらえてあり、鍋がかけられている。その調理台兼かまどには他にも大きなやかんやフライパンなどがならべられ、一本の煙突がかまどの端から天井に伸びている。

 夕食にはマッシュルーム・スープやポテトのフライド・モモ(モモは餃子のようなもの)、ツナのフライド・ヌードルを頼んだ。海のないネパールでツナというのも妙だが、多分インド辺りから来た缶詰かなんかだろう。今村さんはポテト・カレーやヌードル・スープ、スチームド・モモといったところだ。ここに限らず今村さんがフライドに調理された料理を頼まないのは、油が心配だという。年齢的に油っこいものを好まないのもあるだろうが、一番の理由はかつての苦い経験からだろう。
 幸い食べ物で死にそうな思いをしたことは一度もない。旅先での下痢もあたっても当たり前の程度で出すものを出せば回復した。それに比べ風邪では2度死にそうな思いをしたことがある。国内では医者どころか薬とも無縁なんだが、外国の細菌は恐いものだ。

 食後にお茶を飲んでいると体格のいい欧米人のおじさんが入ってきた。ここにいるのはペンマさんやバハドールさん、ここの女将にネパーリのガイドなどアジア系の人間ばかりだったが、我々の隣に座るとダルバードを頼んだ。
 彼は49歳、スイス人に家があるらしい?が20年近く旅をしているという。今回のトレッキングも一人で20kgの荷物を背負い、25日程度でアンナプルナ一周と内院(*2)を自分の足でまわるという。タフ・ガイとは彼のような人を指すのだろう。
 ダルバードがくるとネパーリと同じように器用に右手で飯を口に運ぶ。この流儀はインドで身につけたようで、他には韓国や南アメリカといった場所が出てきた。日本にも来たことがあるらしく横浜や神戸の地名がでた。
 多分そういう関係の仕事で飯を食べていて、ガイドブックでも書いていそうだが肝心の名前を聞くのを忘れた。

 ここの宿は比較的新しく造りもしっかりしていて壁の隙間から隣や外が見えるようなことはない(もっともそんなんだったら寒くてしょうがないが)。
 雨はまだ降っている。

(*1): 日記では地名がDanaquとなっている。食事をとった所の看板から書き写した地名だが、アンナプルナのトレッキング・ガイド(Bryn Thomas, Trekking in the Annapurna Region, Second edition 1996)ではDanagyuとなっている。
 カタカナの発音はここに限らず正確さという点では怪しい。
(*2): Annapurna Sanctuary(アンナプルナ山域の中心部、目標となるアンナプルナ・ベース・キャンプの高度は4130m)

<4日目:Chame〜Pisang>


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