2011年10月06日井手一郎 准教授(メディア科学専攻)
オランダ・アムステルダム大学における在外研究を終えて

 「今時(きんじ)、世間に蘭学といふ事専ら行(おこなは)れ、志を立つる人は篤く学び、無識なる者は漫(みだ)りにこれを誇張す」(杉田玄白:蘭學事始、1815)

 前の自民党政権最後の置き土産である、日本学術振興会「優秀若手研究者海外派遣事業」といういささか照れ臭い名前の助成金に幸運にも採択され、本研究科初(7月15日付け記事の鈴木麗璽先生と同時)のサバティカル(特別研究期間)取得者として、平成22年3月末から1年間、渡蘭した。

 現地で住民登録するために必要な書類として、離日前にオランダ法廷に登録された翻訳者による戸籍謄本の翻訳を作成する際に、あることに気付き、衝撃を受けた;杉田が言うように、わずか 200年前、オランダ語は「国際的」な人たちが共通して学ぶ必須の第一外国語だった。 しかし、今日、オランダ語を解する日本人は何人いるだろうか。離日前に、簡単な蘭和辞書すら見つけられなかった(後述のように、結果的に全く不要だったが)。 この 200年の間に、「国際人」が話すべき言語としては英語が取って変わり、わが国は、明治維新、太平洋戦争、高度経済成長、失われた20年など、様々な時代を経つつ、文化的・経済的には紛れもなく世界に冠たる有力国家になった。

 オランダは国土の大半が海面すれすれの高さにあり、かつては河口の沼沢地に住むわずかな人びとがニシン漁で細々と生計を立てる、貧しい国だった。しかし、技術と商売を通じて、自ら国土を造成し、また世界に冠たる海洋貿易国家になった。 東インド会社が、鎖国中の日本を始め、世界の隅々にまで出かけて行って莫大な富を生み、必然的に人びとがカトリックの束縛から逃れて合理的なプロテスタントに改宗した結果、アメリカに先んじて、世界初の市民国家がここに成立した。 この国は形式こそ王国だが、女王陛下が市電に乗って買物に出かけ、王子様が夜な夜なクラブに繰り出してハイネケンを片手に踊るのだ。

 滞在先のアムステルダム大学は、オランダ随一の街アムステルダムの街中に点在する古い煉瓦作りの教養・文系の建物群と、町はずれの広大な空き地に追いやられた、理系のコンクリート作りのキャンパスからなる。 筆者は当然、自然は豊かだがやや殺風景な後者のキャンパスに滞在した。キャンパスの性格上、基本的に大学院の学生と研究員、教員しかいない。 修士課程には、別段学問に興味はなくとも、惰性で進学して来る学生も少なくないようで(学費は今のところ無料!)、いずこも同じ有り様だった。 しかし、博士課程の学生は、雇われの身でスタッフの一員なため、基本的にきっちり仕事として研究をしていた。 ただし、ポスドク研究員に比べればやはり学生という意識があるのか、日常的に話している限りは、本学のまじめな博士課程の学生達とあまり変わらない気がした。 筆者は滞在中、主にこれらの博士課程の学生やポスドク研究員に仲間に入れてもらい、交友を深めた。

 この国の特徴として、他の欧州諸国に比べて、圧倒的に差別意識が低いことが挙げられる。歴史的に様々なワケありの人びとを受け入れて来たため、国民の 1割は外国人なのだ。大学院などは教員も学生も半分以上外国人(主に欧州各国や中東・アジア出身)である。 その点で、生活面でも仕事面でも、非常に居心地が良かった。オランダでは高校生くらいになれば片言の英語を操り、大学生ならば英語ができて当然である。 地方ではやや様子が異なったが、大都市ではスーパーのレジのトルコ系移民の若者も、八百屋のおばちゃんも、魚屋のおじちゃんも英語を難なく話す。必要ならば話す。徹底的かつ素朴に合理的なのだ。 筆者はかつてアメリカで育ち、アメリカこそ自由と平等と合理主義の総本家だと信じていたが、オランダのこの自然体の自由と平等と合理主義を知った日には、それが二番煎じのまがいものに思えてきた。

 滞在中は、これまで取り組んで来た大規模映像アーカイブの構造化結果を利用して、新たな映像コンテンツを再編簒する研究に、Frank Nack博士と共に取り組んだ。 渡蘭前、過去数年間構想をあたためて試行錯誤してきた研究だったが、なかなか具体的な方向性が定まらずにいた。 結果から言えば、この滞在を通じて、それが紛れもなくマルチメディア分野において目指すべき方向性であることを確信し、具体的な実現方法も見えてきた。 周囲の方々に迷惑をかけつつも実現したこの滞在を通じて、今後 5年間程度の中期的な研究の方向性が定まりつつあるので、特別研究期間を有効に活用できたと思う。

 最後に、この滞在を通じて強く感じたのは、この 200年間で大きく変容した日本に対して、オランダはあまり変わっていないということである。 ライデンの「国立民族学博物館」や「シーボルトハウス」には、シーボルト事件の発端になった伊能忠敬の日本地図、シーボルトが長崎から連れ帰った愛犬「サクラ」の剥製、連れ帰らなかった愛人「オタキ」にあやかって命名された紫陽花の基準標本など、日本の近代史上貴重な歴史的遺物が、あたかも昨日日本から持ち帰られたかのように、なにげなく展示されている。 また、運河の街アムステルダムの美しい景色も、巨匠達が描いた絵画の中の光景とあまり変わらない。

 早熟なこの国から見れば、いまだに個人よりも集団の意志、論理的合理性よりも慣習的非合理性が大手を振るって歩いている日本の変化など、一夜のきまぐれくらいに思えてくる。 日本人の意識の中ではすっかり過去のものになってしまった国だが、わが国がオランダ並みに成熟する日がいつか来るのか。 多難な時ゆえ、とかく感情的議論が喧しくなりがちな昨今であればこそ、折に触れて気にかかっている。

 (平成23年 8月 1日)

写真:旧オランダ連合東インド会社アムステルダム支社重役会議室。 かつてこの部屋に「17名の紳士」と呼ばれる役員が集まり、東インド会社の最高意志決定会議が開かれていた。 現在はアムステルダム大学の講堂として講演会などに使われている。

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